
| 週刊三軒茶屋 第69号 著作:アイヨシ 公開日:2007/01/25 P・K・ディックと筒井康隆と太宰治についてダラダラと |
まずは筒井康隆とディック、現実と虚構についてダラダラ語ってみます。 現実と虚構の問題について考えるときに、アイヨシの頭の中にパッと浮かんでくるのが筒井康隆とP・K・ディックです。この二人は、現実と虚構との区別があいまいになっていくという現代的なテーマについて、偏執的なまでのこだわりを見せていますが、その解決の方向性が正反対なものになってしまったのが面白いと思っています。 筒井康隆の場合、現実と虚構との混在は虚構の存在意義を失わせ、ひいてはそれを創作する側の存在意義が奪われてしまうという問題に対し、じゃあ虚構を超えたものを創作してやろうという、既存の虚構の概念をぶち壊す方向にその意欲が向かいます。すなわち、超虚講論です。その実作が『虚人たち』や『虚航船団』、『残像に口紅を』などです。それらが普通の意味での物語として面白いかはあえて申しませんが(笑)、とても斬新な試みであって普通じゃない意味で面白いということは本心から断言できます。 対して、P・K・ディックですが、彼の作品はとにかく本物とニセモノとの異同をこれでもかというくらいに描いてます。『虚空の眼』しかり『死の迷宮』(創元推理文庫・品切れ絶版状態)しかり『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』しかり。現実と夢、現実とヴァーチャル・リアリティ、人間とアンドロイドなどなど、SF的なアイデアを積極的にとりこみつつも、その根本にあるのは現実への不安です。よくぞまあ、セルフパロディに陥らずに各作品に個性を持たせることが出来たなぁ、と感心せずにはいられません。そんな彼の創作姿勢は、虚構ではなく現実、自分自身をぶち壊す方向へと向かってしまいます。すなわち、薬物中毒による自己破壊です。もっとも、彼がヤク中になってしまった原因を創作だけに求めてしまうのは正しくなくて、鬱病気質からの脱却とかそういうのもあったのでそこは誤解しないで欲しいです。それはともかく、ヤク中になった結果彼を待っていたのは”意識の向こう側”などといった気の利いた世界などではなく(少しは見えたかも知れませんが)、過酷極まりない悲惨な現実だけでした。そんなヤク中時代の経験をベースにした自叙伝的な作品が『スキャナー・ダークリー』なわけです。 P・K・ディックと筒井康隆は問題意識に共通のものがありますが、問題意識は別にして作品、ひいては著者同士も非常に似ているなぁと思うのがディックと太宰治です。女にモテて反国家活動に手を出して、ヤク中になり自殺未遂を繰り返し、そのくせ小説家としては一流で、またその作品には自叙伝的な要素が多数含まれているところも共通しています。太宰治のSF版がディックだ、と言っても過言ではありません。 『スキャナー・ダークリー』はディックのヤク中経験が生かされていますが、その行き詰まり感は太宰の『人間失格』からも読み取れます。ってゆーか、明らかにダメ男なのにどうしてこんなにモテるんでしょうね(笑)。 『人間失格』は久米田康治の漫画『さよなら絶望先生』の作風に多大な影響を与えた作品として世間に広く知られていますし、ライトノベルでは野村美月の『”文学少女”と死にたがりの道化』(ファミ通文庫)がモチーフにもしています。 オススメというには不健康な内容ですが、有名作品ですし未読でしたらまあ読んでおいた方が良いかと。 なお、太宰治はその死後から50年がすでに経過しているので著作権が切れてます。したがって、青空文庫でその著作を全部(←多分)読むことができます。ありがたやありがたや。 それにしても、太宰をモチーフにしておきながら”死にたがりの道化”と切って捨てる文学少女のタイトルは、自殺未遂を繰り返す太宰の真意についての解釈では絶望先生同じスタンスに立ちながらも、それよりも健康的で前向きで素敵です。ただ、『文学少女〜』の作中でも述べられているとおり太宰は暗い話ばかりではないですし、それはディックもまた同じです。著者に罪はないのですが、代表作が鬱な作品というのも困りものですね(笑)。 閑話休題ですが、ディックの代表作に『流れよわが涙、と警官は言った』(ハヤカワ文庫)というのがあります。 三千万の視聴者から愛されるマルチタレントのタヴァナーは、ある朝見知らぬ安ホテルで目覚めた。やがて恐るべき事実が判明した。身分証明書もなくなり、世界の誰も自分のことを覚えてはいない。そればかりか、国家のデータバンクからも彼に関する記録が消失していたのだ! ”存在しない男”となったタヴァナーは、警察から追われながら悪夢の突破口を必死に探し求める……現実の裏に潜む不条理を描く鬼才最大の問題作!ってなあらすじです。世界中の誰も自分のことを覚えていない、となったら、藤田和日郎の漫画『うしおととら』の潮(うしお)みたいな酷い目に遭うと考えるのが普通だと思います。ところがディックの作品の場合、会う女性会う女性が主人公に好意的な態度をとって何かしら助けてくれるのです。そんなわけねーだろ。どんだけアンタはモテてたんだ(笑)。いくらスイックス(=ガン種のコーディネーターのようなもの)だからってそんなに上手く行くか? このモテモテな流れもまた『人間失格』を彷彿とさせます。ちなみに、『流れよ〜』ですが、ディックの作品の中でもタイトルどおり”泣ける”作品として(一部で)評価されているのですが、私にはそれがさっぱり分かりません。どこで泣くのですか? 主人公であるタヴァナーが苦境に陥った原因も意外なものでしたが意外ならいいというものでもなく、別にミステリじゃないんですから目くじら立てるようなものでもないのは分かっちゃいるのですが、それでも「そんなのありか!」と思わずにはいられませんでした。 そんなわけで、途中から何を言ってるのか自分でも分からなくなってきましたが、ディックと太宰はSFと純文学の交差点として最適じゃないかと思うのです。つまり、純文読みの方がSFに手を出すならディックが、その逆にSFファンが純文に手を出すなら太宰というのが、無理のないルートじゃないかと思います。まあ、わざわざそんな鬱な話ばかり読まなくてもいいんじゃね? と個人的には思わないでもないですがね(←だったら勧めんなよ)。 |