週刊三軒茶屋 第65号 著作:アイヨシ 公開日:2006/04/30
涼宮ハルヒの戯言
涼宮ハルヒの憂鬱

著者:谷川流(たにがわ・ながる)
出版:角川スニーカー文庫
初刊:2003
装丁:イラスト いとうのいぢ
定価:514円+税
ISBN4−04−429201−9

 もともと小説としてもライトノベルの中では人気のあった『涼宮ハルヒ』シリーズですが、2006年にアニメ化されまして、その第1話がやらかしてくれた(笑)おかげで、たちまち話題作となりました。そんなわけで、せっかく流行ってるんだから適当に語れることを語ってみようと、ミーハーといえばミーハーですが、日頃新刊とか話題作とかそういう空気を読まずにマイペースなことを書き散らかしている当サイトとしてはむしろ珍しい姿勢で今回はお送りしようと思います。え〜っと、アニメについて語るつもりはなくて、小説限定です。それから、今回は特にネタバレの目的はないですが、それでも4作目に当たる『涼宮ハルヒの消失』を中心に駄弁りたいと思ってますので、そこまでは読まれていることをオススメします。

 一人称+本名不明なあだ名≒二人称

 のっけから意味不明の公式を置いてみましたが、『涼宮ハルヒ』シリーズの特徴である過剰で個性的な一人称語りを一言で表すとこういうことだと思います。
 作中の主人公の本名はシリーズ7作目である『涼宮ハルヒの陰謀』の時点において、いまだに不明です(そして、おそらくは戯言シリーズと同じく最後まで本名が明らかになることはないでしょう)。
 で、キョンという意味不明なあだ名で呼ばれるわけですが、意味不明な故に、読者の脳内で一瞬、あるいは無意識の内に読者自身の本名へと転化してしまう作用を見込んでのことじゃないかと考えています。つまり、”俺は”という一人称が、”あなたは”という二人称に近いものとなり、知らず知らずのうちにキョンの思考と読者の思考とがシンクロしてしまう効果を狙ってのものだと思います。
 別の言い方をすれば、メタな読み方をしがちな読者でもすんなりと物語の中に入り込める書き方がされている、ということだと思います。
 長くて特徴的で、ともすればアクが強くてダメな人にはダメとなりかねないキョンの語りで進んでいくこの物語が、意外に読者を選ぶことなく人気作であり続けている原因の一つとしてこんなことがあるんじゃないかと妄想してみましたが、根拠はあまりありません(笑)。

 こうした二人称的な語りというのが、実は物語的にも非常にマッチしているのが『涼宮ハルヒ』シリーズの大きな特徴だと思います。
 「二人称小説なんて読んだことねーから知らねーよ」と思われる方がいてもそれはごもっともで、探してみれば意外にあったりしますが、探してみないとほとんど出会うことはありません(何気にコレクションしているので、二人称小説については別の機会に)。
 二人称が当たり前のように用いられている表現媒体はゲームです。ゲームブックでもアドベンチャーゲームでもノベルゲームでも何でもいいですが、そうしたゲームでは”あなたは”という二人称視点で語られてるものがたくさんあります。
 小説とゲームとの違いは何か?
 それは、小説のストーリーが一本道なのに対し、ゲームのそれはいくつも道があって終わり方も複数用意されているという点にあります(もちろん例外あり)。
 で、ストーリーの分岐点にさしかかったときに、小説だと作中の登場人物が決断してストーリーが進んでいきますし、当然後戻りはできません。ですから、あそこでこうしてたらどうなってたかという”もしも”ストーリーは、想像で語られることはあっても、決して本線にはなり得ません(これにも例外あり)。
 ところが、ゲームだと真に決断するのはゲームのプレイヤーです。もちろんゲーム中の登場人物もプレイヤーの選択に合わせた思考・苦悩を読者に読ませてくれることで、その決断したプレイヤーのストレスを解消しようとしてくれますが、他の分岐を選択したときの比較とかをしているプレイヤーの物語に対する立ち位置はどうしたってメタ的なものになってしまいますし、複数の選択を許された登場人物たちの個性は希薄なものになっていき、やがてキャラ化することになります。
(『ライトノベル「超」入門[→Amaozn]』[新城カズマ/ソフトバンク新書]p119以下参照)。

 話をハルヒに戻しましょう。『涼宮ハルヒ』シリーズはもちろん小説であり、ゲームではありません。しかし、ハルヒは実のところディープなタイムトラベルSFです。そこでは未来人やら宇宙人やらがタイムトラベルし放題で時間を行ったり来たりしてタイムパラドックスで面倒なことになりますし、ハルヒ自身も無意識のうちにとんでもない時空操作をやらかしたりします。で、タイムトラベルSFには時間操作前と後の世界の整合性という問題がつきまといます。時間操作前の世界がAで操作後がB、操作前の世界に近づけるための操作をするとAに近いCの世界にといった感じです。ストーリーの分岐点による決断で世界のあり方・方向性が、通常のものよりもハッキリと明示されるのです。これは極めてゲーム的なストーリー展開です。
 その決断が極めてドラマチックになされているのがシリーズ4作目の『涼宮ハルヒの消失』です。”消失”では、与えられた世界の選択に際して、”俺”と”お前”との対話で決定過程が語られます。もちろん、ここでいう”お前”はあくまで自問自答という形式で用いられているものなので、正確な意味での二人称語りではありません。しかし、私も含めて読者はドキッとすると思いますし、それでいてそうした流れをとても自然なものとして受け止めることができるのではないでしょうか? それというのも、このシリーズ自体そもそも二人称的なものだと考えれば納得なのです。つまり、もともと「≒二人称」だったために、問いかけによって「=二人称」に自然とシフトでき、それでいて、それまでキョンの影に隠してもらっていた読者が、この瞬間矢面に立たされたがゆえの衝撃ではないかと思うのです。だとすれば、物語の盛り上げ方としてとても巧みな仕掛けだといえるでしょう。

 そんなこんなで、あまり論理的ではない適当なことをつらつらと書いてみましたが、要は『涼宮ハルヒ』シリーズはとても面白いので未読の方には是非オススメですし、続きがとても楽しみだということが言いたかっただけです。このシリーズが無事に終わったときには、また違った観点から考え直すことになるかもしれませんが。
 決して、この後に戯言シリーズとの相違点を模索した文章を書こうとして、あっちもまずはシンクロ効果を狙ってのことだとは思うけど、”物語の終り”という視点からまた別の相応しいアプローチがあるはずだけど……とか考えてたら行き詰って挫折したというわけでは決して……。



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