週刊三軒茶屋 第58号 著作:フジモリ 公開日:2005/08/15

『数奇にして模型』考察 その1(ネタバレあり)

(註:今回の記事は森博嗣「数奇にして模型」のネタバレです。未読の方はご注意ください)

森博嗣のミステリィ、S&Mシリーズ9巻である「数奇にして模型」。(フジモリの書評はこちら) この小説の解釈をめぐり、「三軒茶屋」読者のスレイヴさんからメールをいただきました。 スレイヴさんとフジモリ、そしてアイヨシも巻き込んで行なわれた、メールのやり取りによる「数奇にして模型」考察、各人の思考の対比と接点を楽しんでいただければ幸いです。

(メール掲載・編集は、スレイヴさん、アイヨシの許可をいただいております)

2005/4/9 スレイヴさん→フジモリ

突然のことでご迷惑かけて申し訳ないです。

昨日『数奇にして模型』を一気に初読しまして興奮しすぎました。あれから冷静になってずっと考えてたらまたいろいろな可能性がでてきてしまいましたので、まず最初に思ったことを恥ずかしながら書かせていただきます。多分に詰めの甘さや妄想が入っている可能性大ですが・・・

(妄想)

大まかな事柄については犀川と寺林の会話、最後の犀川の説明を合わせたものだと思いますが、物語が始まる前のことについてです。

結論から先に言いますと、 筒見紀世都は「自分で自分の型をとりたかった」 。しかしそんなことはできない。創作過程で死んでしまうから。 なぜ僕は一人なんだろう?そこに(どうやってかは推測の域を出ませんが)自分の型を取りたいという人物がいることを知る。

寺林高司。

紀世都は「自分でできないのならせめて他の人にやってもらおう。そして僕はその過程を模して『模型』として楽しもう。」と思ったのではないか。しかし失敗は許されない。準備はしっかりとやってもらわなくてはいけない。 たとえどんな犠牲を払ったとしても。 そしてある日寺林に言います。

「僕の妹(の頭部)で予行練習に成功したら、僕を好きにしてもOK」

いつこう言ったのかはわかりません。(もちろん手紙などかもしれない)事件の日から遠い日なら寺林は実行をためらっていたのかもしれないし、近い日なら実行の計画をしていた頃に事件が起きたのかもしれません。どちらにしろ事件は起こります。寺林にとっては最大の危機です。これを逃したら二度と自分の夢を達成することはできません。

寺林はそのチャンスに賭けた。ラストチャンスだからこそ捨て身になれた。そして成功した。あとは警察を振り切って紀世都のところへ行くだけだ。

・・・あとは本文にある通りです。

(妄想終)

ひどい妄想だ・・・
これじゃ本当に狂っているのは寺林じゃなくて紀世都じゃないか・・・
とりあえずなぜこう考えたのかについて言及しておきます。

1.タイトルの『好きにしてもOK』をどこかで使いたかった。(おそらくこれが最大の理由)

2.プロローグのラストに『突然降りかかった最大級の危機から、孤独な模型マニア、寺林高司はどう逃れることができたのか。これが、この物語の主題となる。』と明記されていること。

3.萌絵が紀世都の部屋に行ったときに行われた儀式のようなものは紀世都の妹が大好きだったもので『弔い』であること。

4.その儀式の後、紀世都は笑って、泣いたこと。

5.一個とは何か、一人とは何か、感情は一つなのか、というようなことが幾度も出てくること。

6.紀世都は犯人も犯人の目的も知っていて、自分も殺されることが分かっているが抵抗しようとは思っていない。

7.長谷川貞夫の模型理論。紀世都のやっていることは『製作過程を模している。だから、模型だ』と言っている。

8.寺林は自分の趣味を職場で隠すのと同じ感覚で嘘を付く。

9.7章で萌絵は事件の真相を『誰がどんな方法でどんな理屈で殺したのか』というものなら理解したが、そんな理解には価値がないと思っている。ただ寺林に襲われて、気絶する瞬間に、わかった、と感じた、と。しかし今はもうわからない、と。
→萌絵は寺林の行動の過程に触れた瞬間だけ理解できた。この事件の真相を理解するためには過程が大事である。誰がどんな方法でどんな理屈で殺したのかは真相に関係ない。違う単位で考えているうちは真相に辿りつけない。それは「アシカとオットセイの違いは、いくら?」という問いと同じ。

10.エピローグのラストで筒見教授は立っている男性と首が取れて倒れている女性の人形を見つける。息子が作ったものだと理解した。『妻には、黙っておこう。このままにしておこう。それが良い。もう、終わったのだから・・・・・・。』とある。
→首が取れていることから女性は明日香(紀世都の妹)。男性は誰か?考えられるのは二通り。寺林か紀世都。教授が妻に黙っておこう、もう終わったことなのだからこのままにして見なかったことにするほうが良い、と考えたことから、紀世都ではないかと思う。つまり教授は私の妄想1のようなことを一瞬考え、もう終わったことだからとその妄想を振り切ったのではないだろうか。

11.森博嗣は自身のHPにおいて『数奇にして模型』のラストを編集者に「これは分からないでしょう。」と言われたと書いている。そして「自分の伝えたいことを100%すべての人に分かってもらう必要はない。分かる人だけでいい」というようなことを書いている。

12.紀世都が萌絵に宛てた手紙の中に『首を切ったやつが、今でも立っているよ。』とある。
→10の考えを前提にして考えると・・・

13.紀世都が萌絵に宛てた手紙の中に『切り取られた四角い視覚が死角』とある。
→事件を切り取って視ても見えないものがある。

14.紀世都が萌絵に宛てた手紙の中に『知っている?大地は丸くなんかないのを。(中略)両側は低い木と大きな石ころ。全部、大地のおまけ。』とある。
→大地を真相と考えると、私たちが丸いと思っている大地が事件そのもの。木や石などのおまけ(丸からはみ出たもの)が私の妄想1のようなことではないか。だから『大地は丸くなんかない』

15.紀世都が萌絵に宛てた手紙の中に『これは、保険なんだ。』とある。
→保険とは損失を補うこと。紀世都は自分で自分の型をとることができないことを、『模型』することで補ったのではないか。だから男女の模型は紀世都にとって『保険』である。

16.全文を通して重要な人物なはずの紀世都についての記述があまりにも少ない。犀川も(知らないからかそれともあえてか)紀世都についてほとんど語らない。

17.森博嗣の小説には『笑わない数学者』『封印再度』『幻惑の死と使途』などのように真相のすべてを犀川が語らないという前例がある。

読み終わって1,2時間考えた時点での私の妄想は以上です。タイトルと紀世都が萌絵に宛てた手紙とラストを軽く読み流すことができなかったことからこのような妄想に至ってしまいました。

その後タイトルの関連性については現時点であと二通り思いつきました。

1.『あの・・・・・・、では、彼女の代わりに、僕ではいけませんか?』
→『萌絵に何もしないのなら僕のこと好きにしてもOK』

とても綺麗に仕上がります(笑)これだと私の妄想はすべて吹き飛びます。

2.事件の後に紀世都は犯人の目的、つまり型をとるために首を切って、それは紀世都の型をとるための練習に過ぎない、ということに気づいた。紀世都はそれを受け入れ、寺林が来たときに『好きにしてもOK』と言った。

この場合、紀世都が萌絵に宛てた手紙の解釈を再考しないといけないのですが、今のところ私にはいい解釈ができそうにないです。紀世都が寺林の犯行の模型を楽しんだというところだけは同じです。あとの妄想はすべて吹き飛びますが。


長くなって申し訳ありません。まだ『数奇にして模型』までしか読んでいませんがこの作品を読み終わったときの興奮は森作品の中でもトップクラスでしたのでこのようなことになってしまいました。

文章に慣れていないので多分に拙いところがありますが読んでくださってありがとうございます。できれば感想頂きたいです。 


非常に新鮮な感想であり、かつ説得力のあるものでした。事件の「黒幕」は紀世都であった、そう考えるとこの物語がガラリと趣を変えます。

森博嗣のミステリィは、「笑わない数学者」「月は幽咽のデバイス」のように「真実」を最後まで語らない作品や、「封印再度」、「そして二人だけになった」、極めつけなのは「すべてがFになる」→「四季」へのコンボなど、物語内で言及されていた「真実」がひっくりかえる作品があります。

スレイヴさんが「数奇にして模型」内で完結した「真実」と異なる「真実」を見出した論拠も多数あります。この「真実」は正しいのか?まず、この考察を(スレイヴさんの許可を得て)アイヨシに転送し、意見を聞いてみることにしました。

<もくじ>

「数奇にして模型」考察その1
「数奇にして模型」考察その2
「数奇にして模型」考察その3
「数奇にして模型」考察その4



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