週刊三軒茶屋 第43号 著作:アイヨシ 公開日:2005/02/27

『十二国記』世界についての勝手な考察

十二国記
(『月の影 影の海』〜)
著者:小野不由美
出版:講談社文庫

 いまさらアイヨシがその魅力を語るまでもなく、傑作として知られている大叙事詩です。地図にない国――十二国――で繰り広げられる王と麒麟たちの壮大にして繊細な物語には、一度読みだしたら止められない麻薬的な魅力があります。
 中国風味の独特の雰囲気を持ったファンタジー小説でもあり、国と運命を共にすることを定められた王を中心とした架空歴史大河小説でもあり、特定のキャラ萌え小説としても一級品であったり(笑)、とにかくすごい小説です。まだ完結していないシリーズを褒めちぎるのは主義には反しますが、面白いんだから仕方がありません。
 2005年1月現在までシリーズは『月の影 影の海』〜『風の海 迷宮の岸』〜『東の海神 西の滄海』〜『風の万里 黎明の空』〜『図南の翼』〜『黄昏の岸 暁の天』(これらのタイトルが覚えにくい…)まで出ていて、それに短編集『華胥の幽夢』と、『黄昏の岸 暁の天』と表裏の関係にある『魔性の子』(これだけ新潮文庫から)があります。
 早く続きが出ないかな〜、と切に切に願うばかりなのですが、それまでアイヨシなりに『十二国記』の世界を勝手に考察しておいて、次作の刊行にそなえておきたいと思います。


◆国権の拠り所
 『十二国記』には十二の国があります。国の政治を行なうのは国王ですが、その権力を与えるのは麒麟です。麒麟は天意によって王に選ばれた者は神籍に入り年老いることがなくなります。内乱などの理由で王が死んだ場合には、麒麟が新たに王を選定します。王を選んだ後、麒麟は宰相(宰補、尊称・台補)として王の国政を補佐します。
 選ばれた後の王は基本的に自由に国権を行使することができますが、あまりに無慈悲な行ないをしたりすると天命を失い麒麟が病んでしまいます。この病を失道といい、王が性根を入れ替えれば治りますが、そうでなければ麒麟は死に、麒麟が死ぬと王も死にます。そうなったら、新たな麒麟が生まれ、その麒麟が王を選定するまで、王を失った国は妖魔の跋扈する暗黒時代を迎えることになります。
 王権神授説(帝王神権説)のようなシステムですが、実際の王権神授説は絶対君主制を根拠付けるための理論であったため、人民に反抗の権利は認められませんし、また、王権の世襲制とも結び付いていました。しかし、『十二国記』のシステムだと人民に反抗されるような政治をすると失道してしまいますし、王が死んでも子孫であることを理由にその座が受け継がれるようなことは絶対にありません。
 理想的な王権神授説といいますか、民主主義に絶望した何者かが新たな仕組みを志向したかのようなシステムです。
 歴史上名君と呼ばれる人間は何人もいましたが、しかし名君であっても道を踏み外すこともあるし、死後に再び名君が現れるとは限らないわけですが、このシステムは王を神に据えることで名君の死による傾国を防ぎつつ、慈愛と慈悲の獣である麒麟を王の補佐役につけることで名君の暴君化も予防しています。
 一見すると理想的なシステムですが、これが上手くいっているのかといえば現実にはあまり上手くいってません。なんでこんなのが天命を受けたんだ? という例や、天命を受けて麒麟によって選ばれたはずの王が道を外れることがしばしばあるからです。もっときついのは、道を踏み外したつもりはないけど能力が足りなかったために国が荒れて失道してしまう、というパターンもあるところです。
 天命といえば聞こえは良いのですがどうも麒麟が趣味で選んでるようにしか思えない、というのもありますし、王が王を辞めたくなってもそれが出来ない(辞めると死あるのみ)というのは考えてみれば酷です。それに、ひとことで国政といっても、平時と乱時では王にも向き不向きというのがあるでしょう。名君が現れれば良いけど、そうでないと全くどうにも融通の利かないシステムが『十二国記』の王制なのです。『十二国記』の登場人物たちの一部が、民衆の都合によって王を選び、民衆の都合によって王を辞めさせる民主主義制を引き合いに出す理由がここにあります。
 ちなみに、失道するかというのは短編『華胥』(『華胥の幽夢』所収)がそうですが、志の有無だけでなく、現実に国土をしっかり治めているかがポイントらしいです。そうだとすると、『黄昏の岸 暁の天』の時点で戴の麒麟・泰麒が失道してないのは変だと思います。当人たちに落ち度がないとしても、国が荒れているのは間違いないのですから。そうすると、”天”とやらで何かが起こっていることになるのでしょうか? そして、それが『十二国記』世界を規律するシステムと、王や麒麟たちの運命に関わってくるのでしょうか? 興味は尽きません。

◆『十二国記』の法システム…天鋼とは?
 王は原則として自由に国権を行使できます。その一環として法律を制定することができます。王の定めた法律を『十二国記』では地綱と呼びます。
 ただし、地鋼は施予綱――天が王に対して与えた、このようにして国を治めよという決まり――を犯して定めることはできません。この決まりは天鋼とか太綱と呼ばれています。物語中では天鋼と呼ばれていることが多いみたいです。
 地鋼の制定だけでなく、王の行動すべてはこの天鋼によって縛られています。天鋼と地鋼の関係は憲法と法律の関係に似ています。国会が憲法違反の法律を定めてはいけないし、それに反することを行政が行なってはいけないと考えれば分かりやすいと思います。違うのは、憲法は究極的には国民自身が制定したもの(ということになってます。)であるのに対し、天鋼の制定には人は一切関与していないという点にあります。もちろん、変更することもできません。
 そして、自らの行為が天鋼に背いているか否かの解釈を最終的に判断する権利は人にはなく、天にそれを仰ぐしかありません。つまり、『十二国記』の世界では憲法裁判所が国権よりメタな存在にあるのです。ちなみに、具体的な事件とは関係なく憲法判断を行なう裁判所を憲法裁判所と呼びますが日本には憲法裁判所はありません。具体的な事件の処理に必要な限度で憲法判断を行なうという制度を採用しているからです。
 天鋼の全容は作中でも明らかにはされていないので不明な点も多いですが、それに違反した国王と麒麟は無残な姿になって即死します。天鋼の適用は極めて教条的なものですが、作中でもっとも問題になっているのは覿面の罪です。覿面の罪とは、「兵をもって他国に侵入してはならぬ」と天鋼に書いてあって、これに反した行ないのことをいいます。日本国憲法第9条に似ていますが、その運用は比較にならない程シビアです。『十二国記』の歴史上、斎の国王が範の荒廃を憂い民を救済するために出兵した途端に急死し、国名も才に変わってしまったという”遵帝の故事”があります。その一方で、延の王師(軍隊)が国境を越えて慶に向かったときは、景王が雁の王師を借りたという形式を整えたために覿面の罪に当たらないとされました。やってることはどっちも同じなのに、結果は大違いです。法の裏をかいてるようなもんですし、やってる当人たちも奇妙に思ってます。
 私たちの世界では、法解釈の安定性は裁判官が判決文によって明示することで保障されてますが、解釈対象として立法者意思説(主観説)と法律意思説(客観説)、解釈技法として文理解釈や目的論的解釈といったものがあります。『十二国記』の世界では、天鋼を定めた天に直接お伺いを立てることができるので、解釈対象は天の意思で、その解釈も天そのものが示します。
 しかし、天鋼において「仁道をもって国を治めよ」と定めているにもかかわらず、ときに天鋼によって仁道を縛り、ときにその解釈において仁道を全く斟酌せずに教条的な解釈を示し国に混乱をもたらすようなことになっています。日本みたいに軍備の限界が無意味になってしまうのも困ったもんですが、こういうのも困ったもんです。

◆里木とジェンダー
 『十二国記』の世界では、動物の子どもは”里木”と呼ばれる木になります。もちろん人間も例外ではありません。子どもが欲しい夫婦が里木に帯を結び願い、天に親として相応しいと認められると卵果がなります。それをもぐことで親子となります。SFでいえば人工子宮のようなもんです。ただ、里木の場合には親子の間に遺伝的なつながりは一切ありません。ですから、親子の外見は全く別のものですし、それどころかときどき”半獣”と呼ばれる人間でない生物を子どもとして授かることもあります。不思議なシステムです。
 女性が妊娠するということがないので、『十二国記』の世界では社会への男女共同参画がほぼ理想的な形で実現されてます(授乳はどうしてるんでしょうか?)。しかし、だったらなぜ『十二国記』の生物に男と女、雄と雌といった存在があるのでしょうか? 一応、性行為という概念自体はあるようです。実際、『十二国記』の世界に来たばかりの陽子は、危うく遊女屋のようなところに売り飛ばされそうになってますから。でも、何だか変な気もします。『十二国記』の世界で性同一性障害のような悩みってあるのでしょうか…?
 『十二国記』の婚姻はこっちと比べるとかなり緩やかなものです。婚姻によってどちらかがどちらかの里(村のようなもの)に移動することになります。ですから、生活の苦しい里から逃れるための手段として婚姻が使われることがあります。用が済んだら離縁です。子どもが欲しければ婚姻するわけですが、同じ国に籍を持つ者同士でなければならないと天綱によって定められています。この場合でも、こちらの世界みたいに守るべき血筋・血統という概念が『十二国記』の世界にはないので離縁は容易です。子連れの再婚は親の資格があると天から認められた証しとして、歓迎される傾向があるようです。とはいえ、やっぱり不倫とかはあるんだと思いますが、よく分かりません。
 このように、こっちの世界(日本)と比較すると”結婚”とかの男女のつながりの重要性が低いため、この手の英雄譚につきものの恋愛要素がいい感じで薄まっているのですが、それが個人的にはとても好印象ではあります(笑)。

◆『十二国記』の法システム…その他
 その他、気になったことだけをサラッと。
 『十二国記』の王は地綱を制定しますが、その他、州候を任命して、民に国土を分配するのが仕事です。州は各国に九つありますが、それは天綱によって定められているからです。
 各州を実際に統治するのが州候で、州の土地、人民、軍を管理したりするのがその仕事です。独自の軍である州候師(『十二国記』では軍は警察の仕事も兼務)を持てるので、実態はアメリカみたいな連邦国家制に近いものだともいえます。州候も法律(天綱、地綱ときてますから、おそらく人綱?)を制定(≒条例を制定)することができますが、地綱に逆らうことはできません。もっとも、逆らっても即死することはなさそうです。州候をしっかり抑えるのも王の役目ということでしょう。
 『十二国記』の民は成人になると一定の土地(田と畑と家)をもらえます。これを井田法と呼びます。日本史で習った班田収授法に基づく口分田のようなもんかもしれませんが、この制度によって、『十二国記』の民は天災や災異さえなければ最低限の生活を営むことが可能となっています。成人になると子どもは独立するので、家系によって職業が受け継がれるということはほとんどありません。したがって、職業による差別というものは『十二国記』の世界にはほとんどないです。かわりに、半獣や浮民に対する差別があります。
 ただ、土地に限りがある中で、奏や雁みたいに五百年以上も一人の王が治めて栄華を誇っている国だと、土地が足りなくなって破綻しそうなもんですが、そういうことはないみたいです。
 思うに、ここで里木が一役買っているのではないでしょうか。つまり、人口が増えすぎないように”天”だかなんだかが恣意的・作為的に操作しているんじゃないかと思うのです。増えすぎないようにするための里木で、増えすぎちゃったのを消すのが妖魔の役割、というのは少々考えすぎでしょうか? 世界を律するシステムの存在を感じさせる点ではあります。


 ってな感じで、アイヨシなりに勝ってに解釈してまとめてみましたが、要は天綱に代表される『十二国記』世界を律する”天”の意とやらに王たちが立ち向かうことになるのか否か? なるとしたらそのとき王と麒麟とはどうなるのか? 立ち向かうとしても黄海に攻め込むようなことをしたら王はたちまち死んじゃうわけでどうやったら刃向かうことができるのか? そもそも”天”とは何か? といったメタ的な部分がとても気になりますし、本書のテーマもその部分だと思うのです。しかし、こうして考えると、この物語まとめるの大変そうだなぁ、と余計な心配をしてしまいます(笑)。
 とにもかくにも、続きを早く読みたいぞぉー、の一言に尽きます。



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