| 世界の終わり、あるいは始まり |
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著者:歌野晶午(うたの・しょうご) 出版:角川文庫 初刊:2002 装丁:カバーデザイン 高柳雅人 定価:743円+税 ISBN978−4−04−359504−2 |
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[あらすじ] 東京近郊で連続する子供ばかりを狙った誘拐殺人事件。被害者の子供たちはみな身代金の受け渡しの前に銃で射殺されており、その残虐な犯行に世間は騒然としていた。 冨樫修は妻と息子と娘と幸せな家庭を築いていたが、ある日、息子の部屋から誘拐殺人事件の被害者の父親の名刺を見つけてしまう。もしかしたら、息子は事件について何か知っているのか? ひょっとしたら何か関わりを持っているのか? 疑惑は深まり、やがて……。 「全ての不可能を消去して、最後に残ったものが如何に奇妙なことであっても、それが真実となる」(When you have eliminated the impossible, whatever remains, however improbable, must be the truth)とはシャーロック・ホームズの言葉ですが(→Wikipedia)、ですが、現実から目をそらし続ける限り、妄想の中では無限の可能性をつむぎ出すことができます。そこに真実はありません。妄想に閉じこもってしまうこと、それが世界の終わり。しかし、そこから現実へ踏み出すことができれば、そこから世界は始まります。ただし、その真実が死にも等しいものだとしたら? そうだとしたら、真実に向き合う現実こそが世界の終わりで、永遠に続く妄想の中での生こそ世界の始まりということになります。 (広義の)ミステリというジャンルは、もちろんブームとしての波はありますが、それでもジャンルとして見たときには、常に他のジャンルを圧倒した安定した人気を誇っていると言えるでしょう。ある謎を論理的に解決することにより得られるカタルシス。それがなぜ多くの読者に好まれ、広く読まれ続けているのかと言えば、多くの人がその人生において答えの出ない謎に直面しているからだと思います。そうしたときに必ずしも適切な答えを出すことのできないストレス解消の役割がミステリにはあるんじゃないかと思います。……ってのはちょっとだけ本気ですが半分以上は嘘で、別にそんな難しいことを考えてミステリを読んでるつもりは私にはありません(笑)。 とは言え、人生に悩みは付き物なわけで、そんなときにいくつかの可能性を考慮して最適の道を模索していく。そうした思考作業はミステリにおける推理と、柔軟な思考を要し可能性を大事にするという点で似た側面があります。 しかし、ミステリにおける推理は真実を明らかにするための演繹的な論理的思考、すなわち真実という”存在”を探求することであるのに対し、悩み事の解決はあるべき未来を模索するための作業、すなわち”当為”を探求することであり、本来ならば両者は似て非なるもののはずです。そのはずなのですが、ミステリのおける真実など実は相対的なものに過ぎないのでは? という疑問を投げ掛けるミステリ(=アンチ・ミステリ)がたまにあります。『毒入りチョコレート事件』などはそんなアンチ・ミステリの代表格ですが、本書はそうした真実の相対性を志向するミステリの手法を巧みに利用した斬新な実験的小説です。 虚実の混濁が存在と当為の混濁によって引き起こされているわけですが、こんな小説は初めて読みました。法月綸太郎曰く、「シナリオ分岐型ノベルゲームのマルチエンディング方式を、力技で一本の長編に仕立てたような実験作」(法月綸太郎『名探偵はなぜ時代から逃れられないのか[→Amazon]』p283より)ということになりますが、本書は奇書好きの方には問答無用でオススメしたい一冊ではあります。 ありふれた家族風景にあり得そうな陰惨な事件。それらが結びついてしまいそうな社会的背景があって、本格ミステリとしての手法がそうした社会的テーマ性とも結びついているのも注目です。単なる実験小説以上のインパクトを読者に与えます。率直に言ってかなり面白いです。他人の不幸と自らの不幸とを切り離す利己的な考え方は独善的ではありますが、しかしながら誰もが思う本心でもあるでしょう。守るべきものがあるのなら尚更です。だからこそ、私はこの主人公を優柔不断などと揶揄して嘲笑する気にはなれません。人生という世界において、始まりを選ぶことはできません。では、終わりは選べるでしょうか? 選ぶべきなのでしょうか? 巧緻と力技が同居した不思議な物語は、これまでにない読後感を与えてくれます。ミステリの枠を超えた実験作にしてこれ以上のない完成度を誇っている本書は、ある意味王道とも言える存在感を持っています。是非是非ご一読を。 |