| 赤朽葉家の伝説 |
|
|
著者:桜庭一樹(さくらば・かずき) 出版:東京創元社 初刊:2006 装丁:カバーデザイン 岩郷重力+WONDER WORKZ。 定価:1700円+税 ISBN4−488−02393−2 |
|
[あらすじ] 千里眼の祖母、漫画家の母、何者でもない”わたし”。「最後の神話の時代」、「巨と虚の時代」、そして「殺人者」。 戦後の日本、高度経済成長、バブル景気と崩壊、そして平成にまで至る現代史を背景に、鳥取の旧家・赤朽葉家の三代の女たちの生きる姿を描き切った著者渾身の一大叙事詩。 桜庭一樹といえば、これまでは一人称視点による独特の視点・心理描写が魅力的な作家だと思ってました。著者の作品の中で個人的に最高傑作だと思っている『少女には向かない職業(注:ネタバレ書評)』は、一人称視点が最大限に活用された倒叙ミステリですし、『少女七竈と七人の可愛そうな大人[→Amazon]』は七竈に雪風、七竈の母・川村優奈、さらには飼い犬のビショップなど、様々な一人称によって語られることで物語に奥行きが生まれていました。 そんな桜庭一樹が満を持して発表した本書は、三部構成のうち一部と二部は、赤朽葉瞳子の昔語りとは言え、三人称で語られているのがとても特徴的です。三人称によって語られるのは、戦後の鳥取の地域史であり、親子三代の歴史でもあります。捨て子である祖母・赤朽葉万葉から始まり、母・赤朽葉毛毬、わたし・赤朽葉瞳子の三部構成の物語は、一族における女の血のつながりの物語でもあります。この”血のつながり”を描くために、著者は地域史・その時代背景を丁寧になぞっていきます。人は血のつながりに縛られ、血のつながりは歴史に縛られる。現代史の描写によって表現されているその時代の雰囲気が、ときに人物の心理を心理描写なしに描き出すことに成功していることに驚かされます。 三部構成の物語はそれぞれに異なる主人公を持ちつつも全体で一つの大きな物語になっています。それぞれの部・主人公が相互に関係しあっているからですが、それはまた世代間の関係を象徴しているものでもあります。 祖母・万葉の千里眼の設定は高度成長時代の勢い・”未来”への無垢な希望の象徴ですし、母・毛毬の漫画家という設定は毛毬の過ごした説明不能な情熱的な青春をひたすらに表現しますが、それはまさに”今”の象徴です。そして、わたし・瞳子は語る物語を持たず、というより持たされません。 こうした大胆な象徴化が可能なのは、一部と二部が神の視点による三人称ではなく、瞳子という一登場人物の視点による三人称だったからこそです。瞳子視点だったからこそ時代背景に自然な形で解釈を与えることが可能なのであり、その解釈が象徴化を嫌味なく可能にしているのです。神の視点でこれをやっちゃうと大上段で嫌な感じの物語になっちゃう恐れがありますからね。実に巧みな構成だと思います。 親子三代の物語だけに、読む側の世代・年齢によっても感想は違ってくるのかも知れません。私自身は、年齢的には瞳子寄りの人間ですので、当然瞳子の生きてる時代・考え方に一番親近感を抱きます。しかし、その次がなぜか万葉で、どういうわけか毛毬の時代・考え方がまったくピンとこないのに我ながら驚きました。万葉が主人公の第一部は読んでて奇妙な懐かしさを感じたのですが、第二部は新鮮さや驚きといったものを感じはしましたが、ノスタルジックなものがほとんどありませんでした。他の方がどのように感じたのかは分かりませんが、”巨と虚の時代”という第二部の章題にとても納得のいくものを感じました。 先に、瞳子は語る物語を持たされなかった、と述べましたが、これは既読の方にはお分かりでしょうが不正確な表現でして、万葉の今際の言葉によって瞳子は万葉の”過去”を調べることになります(というより、それまでの瞳子の語りそのものが調査であり、それに読者は知らずに付き合わされていた、ということになります)。 その結果、瞳子はちょっとした称号を得ることになるのですが、これは万葉が千里眼の力によって瞳子に意図的に(あるいは千里眼によって導かれた?)物語を与えた結果だと思います。つまり、万葉の告白には単なる懺悔以上のものがあったと思うのですが、ここは解釈の分かれるところだとは思います。いずれにしても、三部に行なわれる謎解き作業が本格ミステリのようなパズルめいたものではなくとても湿っぽいもので、にもかかわらずその解決がとても論理的なのが面白いです。この点だけをとっても本書は傑作だと思います。 繰り返しになりますが、本書の構成はホントに巧みです。一部の祖母・万葉の物語がもの心つくかつかないかくらいの子供の頃から始まるのに対し、二部の母・毛毬の物語は中学時代から、三部のわたし・瞳子の物語は22歳から始まります。三人の主人公の物語の始まる年齢をずらすことで、読者がだぶり・重複を感じないようになってるのです。憎らしいほどの配慮です。この配慮のために母・毛毬は夭逝した、ともメタ的には言えますが、その死が不自然なものに感じられないのは、毛毬がその時代を背負っているためでもあります。すなわち、”過労死”という言葉が一般的なものになったのが丁度その時代なわけです。登場人物を描きながら時代をも描く。人はその時代に縛られるということは、その時代に生きた人間は程度の差こそあれ、その時代の擬人化的側面があるということでもあります。そんな戯曲めいた毛毬の運命には、おかしさと悲哀がないまぜとなった不思議な読後感があります。 少女から母、母から祖母へという女性の人生を、戦後から現代までの歴史の流れの中、桜庭節全開で描き切った本書は紛れも無い傑作だと思います。昭和から平成へ。さらに物語は閉じることなくビューティフル・ワールドへ……。これから先、私たちは世界を美しくすることができるでしょうか? |