スキャナー・ダークリー
原題:A Scanner Darkly
著者:フィリップ・K・ディック(Philip Kindred Dick)
訳者:浅倉久志(あさくら・ひさし)
出版:ハヤカワ文庫
装丁:カバーイラスト 影山徹
    カバーデザイン 岩郷重力+T.K
初刊:1977
定価:880円+税
ISBN4−15−011538−9

[あらすじ]
 供給源不明の麻薬、物質Dが蔓延するアメリカで、麻薬捜査官であるフレッドことボブ・アークターは捜査官仲間に知られることなく中毒者グループに潜入し、自らも麻薬を服用していた。
 そんなある日、彼は指令を受ける。アークターという名のヤク中を監視するようにと。自分自身を監視することになった彼のアイデンティティは徐々に崩壊していく……。


 よく言われますが、『虚空の眼』では夢と現実、『電気羊はアンドロイドの夢を見るか?』ではアンドロイドと人間といったように、ディックの小説はホンモノとニセモノの差異をテーマにしたものばかりです。そんな偏執的なまでのこだわりの背景には、ディック自身が絶えず感じてきた現実への不安感があります。その不安感が、外界への疑念ではなく自分自身の内面の崩壊へと向かってしまったのがこの作品です。

 実のところ、オススメ小説として紹介するのは少々気が引けるものがあります。本書を読んでも楽しい気持ちになることはまずないと思われるからです。不幸な境遇にある主人公がそのまま転落していく様を淡々と描いています。ドラッグ風に例えれば、まさにダウナー系の鬱な物語です。
 物語としては全然面白くないのですが、それでも本書は傑作です。私は生まれてこの方ドラッグに手を出したことはありません。しかし、ドラッグにまったく興味を持ったことがないのかと言われれば、それは嘘になるでしょう。集中力を維持するためとか、ままならない感情をコントロールするための手段としてとか、あるいは単なる好奇心とか。ドラッグへの動機を生み出すロジックは実にシンプルですし、その機会はとても身近にあるのが現実です。
 しかし、優等生的な意見と思われるかもしれませんが、本書を読むことでドラッグへの興味はまったくなくなりました。というより、満足してしまったと言う方が妥当でしょうね。端的に言うと「こうはなりたくないな」と思ったというのが本音です。
 本書は、ドラッグに対しての好奇心・想像力を苛立たしいほどにかき立てます。政府の広報みたいにドラッグをきれいごとで全否定するような、そんな安直なアプローチはとりません。真実を描いています。だから、ドラッグの誘惑・それによる高揚感・酩酊感・トリップといった魅惑的な面も描いています。ちょうど戦場を駆ける戦車がカッコ良くて、ミサイルによる爆発が綺麗なように。

たとえば、この小説を書いているうちに、わたしはジェリー・フェイビンのモデルだった男が自殺したことを知らされた。アーニー・ラックマンのモデルになった友人は、わたしがまだこの小説を書きはじめないうちに死んだ。しばらくのあいだ、このわたしも、やはり路上で遊ぶ子供たちのひとりだった。ほかの仲間とおなじように、おとなになるよりも遊ぶほうを選び、そして罰を受けた。わたし自身も、巻末に掲げたリストのひとりだった。それはこの小説を捧げられた人びとのリストであり、そして、そのひとりひとりになにが起きたかのリストでもある。
(本書『著者覚え書き』p461〜462より)

 本書は、ディック自身の体験が色濃く反映されている自叙伝的な作品でもあります。作中における、ヤク中同士の脈絡があるのかないのかよく分からないコミカルなやりとりも、そのときの経験が活かされているもののようです。そうした会話は軽妙ながらも脳みそを直接くすぐられているような嫌な感じがつきまといます。そんな感傷的な著者の思い入れは、普通だったら物語を独りよがりで自己満足なものにしてしまいがちであまり好ましいものではありません。しかし、本書のような救いのないストーリーの場合には、それくらいおセンチな要素があった方が読了後に少しだけ救われる思いがするので悪い気はしません。そういう作品なのです。

 麻薬中毒によってアークターの神経は壊され、彼の現実は崩壊していきます。それをさらに加速させるのが彼の任務です。極秘の覆面捜査官が、おとり捜査をしているときの自らを監視することになるという皮肉。類似のシチュエーションは『虚空の眼』(そう言えば本書とタイトルが似てますね)でも用いられていますが、こっちの方が不条理でクレイジーです。こんなデタラメが起きてしまう近未来は、麻薬が社会にあまりに深く根付いてしまった社会としてディックが描いたものなわけですが、麻薬対策に苦慮する現実の問題と著者ディック自身の体制への不信感とが相俟って、とてもリアリティのあるものになっています。ドラッグのよる個々の狂気と、全体主義を背景とした人権を無視した監視の日常化による社会の狂気との結びつけ方はとても巧みだと思います。

 ディックは、麻薬乱用は病気ではなく、ひとつの決断だ(本書p462より)と述べています。そこに麻薬中毒の自業自得な見方を見出すのであれば、本書の主人公アークターの運命はあまりに過酷に過ぎるでしょう。自己に感知できないレベルでの「現実」によってアークターの現実は破壊され、廃人になってからもどこまでも組織のコマとして扱われる「現実」において、彼に救いはまったく用意されていません。センチメンタルな動機で書かれているにもかかわらず、この容赦のない結末の見事さはどうでしょう。
 この容赦のなさが、本書の傑作であるゆえんであることは間違いありません。この物語には、ドラッグをやらなければ幸せな暮らしが待っている、などというご都合主義はまったくありません。ドラッグによらずとも現実は変質させられてしまいますし、そもそもが冷酷で歪んだものなのです。そんな狂った現実に相対してもなお、ドラッグ中毒の悲惨さを訴えているからこそ、本書はまさに真のアンチ・ドラッグ小説である、と言えると思うのです。
 それにしても、良くこんなの書けたなぁ……。傑作は傑作ですが、メジャーになってしまっては困る一冊です。

参考:P・K・ディックと筒井康隆と太宰治についてダラダラと



[蛇足]
 てなことを思ってたのですが、何と映画化されました(監督:リチャード・リンクレイター)。これはメジャーになってしまうかも分からんね、と思って一応映画を観てきましたが、結論として、やはりメジャーになることはないと思います(笑)。
 その理由は、この映画が全編にわたって採用しているロトスコープ(=アニメーションで人物の動きをリアルに表現するため、まず俳優を使って撮影し、そのフィルムを動画台の下から投影して1コマずつトレースしていく技法)という手法にあります。
 この映画、アークターをキアヌ・リーブス、ドナをウィノナ・ライダーという有名どころが演じているのですが、ロトスコープの手法によって、人間が演じているという感じが薄れてしまっているのです。ですから、俳優・女優ファンからすれば食指が動きにくいものになってしまってます。また、アニメとして観たときにも、正直写実的過ぎてアニメっぽくないので、アニメファンの間で話題になることはほとんどないと思います。
 ロトスコープを使った理由は分かります。ドラッグによって曖昧となってしまった現実を、その現実全体をアニメ化することで表現したかったはずで、実際ときどき出てくる中毒による幻覚・妄想は実に自然なものになってました。それに、スクランブル・スーツという特殊な服もCGでとても綺麗に処理されてました。しかし、全体的な印象として地味なものになってしまっていることは否めません。そのストイックな姿勢は決して嫌いじゃないのですが……。
 メジャー化を妨げるもうひとつの要因として、ビックリするくらいに原作に忠実である、というのがあります。いや、こんなに原作そのまんまだとは思いませんでした(笑)。ホントに原作通りなので、原作厨のアイヨシみたいな人間にとっては不評なわけがないのですが、原作を知らない方が観たらどういう思いを抱くのかは興味のあるところではあります。それはさておき、原作を再読しているような気分になったと、いうのがこの映画を観た正直な感想です。
 ただし、原作とはひとつだけ違う仕掛けがあって、これには少し驚きました。原作を読み返してみるとそういう読み方はできなかったので、映画オリジナルの仕掛けということになりますが、そういう見方・アレンジもなくはないですね。ただ、それだとあまりにもアークターが不憫なように思うのです。そういう意味では、原作を知らない方がこの映画ではより鬱な気分になれるのかも知れません。お金と時間(上映時間100分)をかけて凹みたい人にはオススメできる映画でした(笑)。



[参考資料]
 本書は、東京創元社から山形浩生・訳『暗闇のスキャナー』という邦題で刊行されてましたが、映画化による版権移動によってハヤカワ文庫から新訳で刊行されました。本書評はその新訳版を底本としています。
 そんなわけで創元推理文庫版は絶版になってしまってますが、訳者のホームページで全文(!)を読むことができます。どっちの訳が良いかは、原文と照らし合わせたわけではないので好みの問題としか言いようがありませんが、それでも個人的には山形浩生・訳の『暗闇のスキャナー』版の方が好きです。特に序盤の読み易さは断然『暗闇〜』の方が上だと思います。
 しかしながら、単純にそうとは言い切れなかったりもします。この作品、実は唐突にドイツ語の文章が入り込んでくるのです。で、山形版ではそれはそのままなのに対し、浅倉版ではきちんと訳されています。著者であるディックが狙った効果・真意に忠実であろうとすれば、山形版のように訳さずにいる方が正しいのだと思います。しかし、正直何が書いてあるのかは気になりますし、だとしたらやっぱり訳してある方が嬉しいわけで、その点では浅倉版の方が好きです。ま、あくまで好き嫌いの枠を出るようなものではありませんから、どっちでもいいんですけどね(笑)。

書評TOPページへ