[あらすじ]
最終世界大戦後、死の灰に覆われた地球から多くの人類は火星に移住し、そこに残った人類の間では、生きている動物を所有することが地位の象徴となっていた。
人工の電気羊しか持っていないリック・デッカードは、本物の動物を手に入れるために火星から逃亡してきた生き残りのアンドロイド6体を廃棄処理する”賞金かせぎ”の仕事に着手する。
[CAUTION! ネタバレ注意!]
本書はディックの代表作であり、また言わずと知れた超傑作SF映画『ブレードランナー』の原作でもあります。
アイヨシは、本書→DVD(最終版)の順で見ましたが、どっちも傑作だと思ってます。原作である本書と映画版(以下BR)は別物だと言われることもありますが、それはそれで納得できます。原作では、人間とアンドロイド、生きている動物に人工の電気動物、それにマーサー教といった様々なSF的ガジェットが盛り込まれているのに対し、BRでは人間とアンドロイドとの関係のみに焦点が絞られており、他の要素は極力削られてしまっています。人間とアンドロイドという極めて細い直線の上、すなわちBladeを走る者、ということで『ブレードランナー』というタイトルの意味は理解できますが、電気羊とかが出てこないので原作どおりのタイトルが使えないという事情もあるでしょうね(笑)。
人間とアンドロイドという二つの支点しか持たないBRの主人公であるデッカードのパーソナリティはとても脆くて不安定です。それゆえに、BRではデッカードの正体についてむにゃむにゃ。
映画版のネタバレをする気はさらさらない(もっとも、真相は藪の中でしょうが)ので原作の方に話を戻しますが、アンドロイドだけでなく他の様々なガジェットを組み込みながらも、本書は解説込みで294ページと程よくまとまっていて、それでいて詰め込み過ぎという感じはまったくしません。非凡な構成力だと思います。
本書のテーマは、つまるところ『人間とは何か?』です。人間そっくりのアンドロイドも電気動物もマーサー教といったガジェットも、問題意識を提示するための抽象例であり具体例であり、さらには解決に導くための小道具にしか過ぎません。
リックの任務はアンドロイド狩りですが、居場所を探し当てるための、ハードボイルド小説みたいな捜査とか本格ミステリみたいな華麗な推理、あるいはど派手なアクションとか、そういったものはほとんどありません。人間とは何か? 人間であり続けるためにはどうすればよいのか? そうしたリック自身の心の旅こそが真の任務であり本書の読みどころなのです。
物語の冒頭で、リックと妻のイーランは情調オルガンとダイヤルという外的な作用によって感情をコントロールしています。さらに、科学技術の発達は高性能な人工脳の開発を可能にし、その脳は高度な知性を有します。知性と感情とが人間の特権とは言えなくなってしまった世界において、人間とアンドロイドをどうやって区別したらよいのでしょう?
ちなみに、現在人間と人工知能との判別するためにチューリング・テスト(→Wikipedia)などが用いられていますが、これは知性の有無を測る方法です。ですが、本書の未来世界におけるアンドロイドは並みの人間よりも高い知能を持っているために、仮にそれらの測定方法が完全なものであったとしても、アンドロイドを検知するための役には立ちません。 そこで、本書において人間と非人間とを分ける境界線として登場するキーワードが”感情移入”です。フォークト=カンプフ感情移入度測定法と呼ばれるテストによって人間とアンドロイドが判別されていますが、これは知性ではなく感情移入度を測るテストです。チューリング・テストと同じく質疑応答の形式で行ないますが、答え自体の言葉的な意味には注目せずに、答える時の眼の反応を見て判断します。リックにとって、感情移入能力の有無が、自らの行為を殺人と捉えるか廃棄処理と捉えるかの境目となります。
しかし、ことはそう単純ではありません。科学技術の進歩はアンドロイドをどんどんと人間に近づけていきます。実際、リックが最新型のアンドロイドにフォークト=カンプフ検査を行なったときに、最初は危うく人間だと騙されそうになります。知能や感情を持つアンドロイドが自らの存在・運命に対して苦しみ嘆く姿を見て、それでもなおアンドロイドを廃棄することができるリック自身は、果たして人間だと言えるのか? 自分自身に対してフォークト=カンプフ検査を行なうリックの姿は確かに物悲しいです。
死の灰によって生物のほとんどが死に絶えてしまった世界にあって、貴重な生きた動物を慈しむリックは、まさにその動物に感情移入しています。しかし、当然のことながら動物には知能もなければ感情もありません。思考も感情も共有することができないのに、それを自らの所有とすることに心血を注ぎ、その代替物でしかないニセモノの電気動物にも、精神の安定のために一定の価値を見出します。さらに、アンドロイドたちの策略により、地球の人間たちが信仰していたマーサーや、コメディアンのバスターがアンドロイドだったことも白日の下に晒されます。アンドロイドを神やタレントとして認めてきた自分に、果たしてアンドロイドを廃棄する資格があるのか? もはやそれは殺人ではないのか? リックの思考も感情もごちゃごちゃになってしまいます。
そこでリックにとって救いとなるのが、皮肉にもアンドロイドであることが明らかとなったマーサーの存在です。平たく言うと、存在非存在は感情移入においてさしたる問題ではない、ということでしょう。神が”者”だろうが”物”だろうが”もの”だろうが、そんなの知ったこっちゃないのですよ。19世紀にニーチェによって神は殺されましたが、それでも神は存在し、それを信じる人々は心の安らぎを得ることができるわけです。などと図らずも新興宗教の勧誘みたいなことを書いてしまいましたが、そんなつもりはまったくありません。私自身は無神論者の無宗教者なので。ただ、マーサーによって語られる真実、そしてリックにとっての平穏は、とても現実的でシビアなもので、それでもなお紛れもないハッピーエンドなものです。だから、これからも人間は人間として生き続けていいんだ、ということになるはずなのですが、にもかかわらず本書を読んでこんなに悲しい気持ちになるのは何故でしょうね?
本書を読んだあとに、カバー絵の羊の絵を見たら、何だか無性に本物の生きた羊を見てみたくなりました。
[参考資料]
●アンドロイドは電気羊の夢を見るか? のパロディ集(@高い城さん)
他の方の書評をネットサーフィンしてたときに見つけたページです。本書のタイトルはとても印象的なだけに、パロディとして使われることもとても多いみたいですね。
|