黙示録3174年
原題:A Canticle for Leibowitz
著者:ウォルター・M・ミラー・ジュニア
(Walter Michael Miller, Jr.)
訳者:吉田誠一(よしだ・せいいち)
出版:創元推理文庫
装丁:カバーイラスト 吉永和哉+WONDER WORKZ。
初刊:1959
定価:920円+税
ISBN4−488−64301−9
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[あらすじ]
 最終核戦争の結果、国々は地上から消滅し、文明は中世以前の段階にまで後退した。科学知識が忌避され科学者が迫害される世界の「単純化」の中にあって、一人の男が災禍を逃れた数少ない文献の保存のための修道院を設立した。
 そうして30世紀を過ぎる頃、ようやく人類は文明の再建に向かって動き出した。今度こそ人類は破滅することなく反映の道を歩むことができるのか? 記録保管の任を負った修道院が見つめる遠未来の人類史。1961年ヒューゴー賞受賞作。


「おまえさんは選ばれたことの重荷という。わしは原罪の重荷という。どちらにしても、結局責任の重さというものに帰着する点では同じなのだが、わしらはそれを違った名で呼んで、その名の意味するものについてむきになって論争する――本当は名をつけたところで表せるわけではないし、心の、こよなき沈黙のうちにこそあるものなんじゃがな」
(本書p231より)


 核兵器の開発は、人類による最終戦争と滅亡というテーマをSFに与えました。最終戦争後を舞台にした物語は数多く生み出されていますし、その中には一子相伝の暗殺拳を巡る死闘を描いたSF色のまったくない作品まであったりします(笑)。そうした終末戦争後の世界を舞台にした作品の中でも、特に傑作の呼び声が高い(と思う)のが本書です。

 本書は三つの章に分かれてまして、各章だいたい150ページ前後です。各章の間には数百年規模の空白(!)がありますので、当然のことながら全体を通しての主人公というものは存在し得ません(各章ごとの主人公はいますが)。本書の主人公をあえて挙げるとすればそれは修道院そのものであり、もしくは”神の子”(これは違うかも)ということになるのでしょう。

 〈第T部 『人アレ』〉は、2570年頃の時代から始まります。この章では、なぜ文書の保管が図書館でも博物館でもなく修道院で行なわれているのかが語られます。すなわち、1970年代に起きた核兵器による最終戦争は、生き残った人々にそれを作った科学者への憎悪を生み出し、その憎悪は学問のある人間全てを対象にしたものへとエスカレートしていき、さらには読み書きのできる者にまでその狂気は向けられることになります。生き残った者が生き残った者を殺戮する「単純化運動」は四世代に至るまで繰り返されました。
 そうした「単純化」がまさに始まらんとする時に、学者であったリーボウィッツという一人の男(後に「単純化運動」によって殺害される)が災禍と群集の狂気から文献を守り、後世に残すために設立したのがリーボウィッツ修道院なのです。変動期から単純化といった一連の歴史の流れはもちろん作者の生みだした架空の未来の歴史ですが、とても理にかなったものだと思いますし、文明が後退してしまった理由としても説得力がとてもあると思います。
 リーボウィッツ修道院の修道僧たちは規則正しい厳しい生活を自らに課し、そうすることで世俗との関係を極力絶ちます。僧としての修行を積みながらかつての文明の跡を探り、その中から書物のみを持ち帰り(たとえ興味をひくものであっても金物類に構うことは厳禁)、書かれていることの意味も分からないままに書写をし、文献を蓄えていきます。
 本章ではそうした生活を営む修道僧の一人であるフランシスを主人公にしてストーリーは語られるのですが、正直な話、初読時はつまらなくて読むのをやめようかと思いました。いや、禁欲的で自虐的な修道僧の生活なんて楽しいことが何もないのですから、そんなの読んだって面白いことがあるはずないのですよ(笑)。それに、意味不明の規律に従う修道僧の心理なんて理解できねー、とも思うわけですよ。しかし、逆に言えばそれだけ修道僧の修行生活をきちんと描いてるということは言えると思い、本書を放り投げるのを思いとどまったわけですが、結果としてそれは大正解でした。まず、本章の結末が何とも言えず皮肉で、にもかかわらずとても感動的なことがあります。また、これがあるとないとでは、続く第U部での修道院長の”あるセリフ”の迫力が全然違ってきます。ってゆーか、本章だけ切り出しても十分に傑作だと思います。言ってることがさっきと違いますが(笑)。

 〈第U部 『光アレ』〉は前章から六百余年が経過しています。
 修道僧たちは相変わらず文献の保存に努めていますが、文献の収集と整理が進むにつれて、だんだんとそこに書かれていることの意味が分かるようになってきました。そうした断片的な知識を基にした科学的実験も行なうことができる段階にまでその理解は進みました。
 一方、世俗では人々の集団がいくつかの国家へと発展を遂げ秩序が生まれつつあります。しかし、国家同士の争い・戦争もまた起きようとしています。文明も再興し”科学者”と呼ばれる職種が認められるまでに学問も盛んになっています。
 そうした文明を代表する科学者タデオ博士とリーボウィッツ修道院に保管されてきた文献、いわゆるリーボウィッツ文書・『大記録』との出会いが本章の眼目です。  タデオ博士はその時代を代表する科学者ですが、修道院で行なわれている実験と保管されている文書の内容の高度さに圧倒されます。タデオ博士は文書の内容・知識を次々と吸収し体系的なものへと発展させていきます。修道僧たちもタデオ博士の能力に敬意を表し協力を惜しむことなく、博士の求むるがままに文書・文献を次々と提供していきます。
 両者の協力によって、それまで集めれらるばかりで意味の分からないものがほとんどだった文書・文献の内容が明らかになり、文明の急速な進歩の可能性が開かれたにもかかわらず、両者は対立を強いられます。
 タデオ博士は優秀な科学者ですから、修道院に保管されている文書の価値・重要性を理解します。しかし、それによって、自らの科学者としての才能が過去に行なわれた仕事の再発見に費やされてしまうこともまた理解してしまいます。タデオ博士は文書が修道院に囲われていることを非難し、その開放を主張します。
 修道院長であるドン・パウロもまた苦悩します。修道院は文書文献を保存してきました。その目的は単に保存することにあるのではなく、文書の価値を理解してくれる人間に引き継ぐことにあります。そういう意味ではタデオ博士は格好の人物です。しかし、かつての文明は科学技術の進歩の果てに核兵器を開発し破滅を迎えました。修道僧たちがどのような想いで文書を収集しそれを保管してきたか? タデオ博士はそのことをどこまで理解してくれるのか?
 二人が交わす握手の意味は……? 宗教と科学、権力と科学、権力と宗教。本章で語られている事柄は極めて現代的です。

 〈第V部 『汝ガ意志ノママニ』〉は、前章からさらに六百余年後の未来なわけですが、どんな話かはさすがに伏せておきましょう。ただ、意外な結末が待ってるとかそういうことはありません。前章まで読んだ者にとっては必然の展開だと思います。

 解説で述べられている通り、確かに本書は疑似科学もファンタジーもない未来を描いたSFです。ただ、ひとつだけファンタジーな要素がありまして、それが第T部では放浪者として登場し、第U部、第V部では隠者として登場する老人の存在です。各章ごとに異なる立場・名前で登場しますが、実は人間ではあり得ない長い年月を生きていることがほのめかされていて、それを信用すると、これらの老人は同一の存在であると考えられます。しかし、人間が千年を越える時を生きられるはずもありません。ではこの老人は一体何なのか? リーボウィッツとも読めますしさらにはイエスとすらも読めるこの人物の正体は? あくまで私の勝手な見解ですが、おそらく宗教を擬人化した存在ではないかと思います。擬人化といっても”萌え”とかそういう意味ではありません。神も宗教も真に理解することはできません。しかし、感情移入することができれば真理に近づくことができるのではないか? てなことを著者は考えたんじゃないかと思っています。根拠はありませんけどね(笑)。
 本書はとても重層的な読み方ができますが、独断でテーマをひとつ設定すると、ズバリ”理性とは何か?”ということだと思います。
 第T部における修道僧たちの生き方とそれを支える教義は、常識的にも既存の宗教を基準にしても滑稽なものです。にもかかわらず、それが第U部になると時代を代表する科学者と対等の立場で物を語り、さらに第V部では人類のわずかな希望としてそこに存在します。作中の言葉を借りれば、意味の人間的反映と真理の人間的記述とは何かを問う物語が本書だと思います。
 理に生きて悪をなすか狂気に生きて善をなすか。あまりに重い問いをSFというジャンルの枠に収めてしまった本書は紛れもない傑作だと思います。静かにオススメします。

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