[あらすじ]
ジョージ・スミスは米軍駐屯地の兵士だったが、差し出した手紙の文面について少佐から説明を求められた。ジョージはうろたえ少佐に飛びかかろうとした。しかし、自分の手から流れる血を見た途端、彼はそれを吸い始めた。
ジョージは本国に送還され、そこで精神科医の診断を受けることになる。彼の異常な行動の原因は一体何なのか?
「わたし達は……、羊の群れに潜む狼なんかじゃない。牙を持って生まれた羊なのよ」
(『羊のうた 第7巻[→Amazon]』p87より)
本書の特長は、特殊な叙述スタイルにあります。「あなた」という二人称の語りから始まります。精神科医同士の往復書簡は一人称ですし、患者であるジョージが自らの半生を物語として記した部分は三人称です。さらに、精神科医とジョージの問答はQ&A形式です。実に様々な角度・視点でジョージの物語は語られますが、しかし、本書の要点であるジョージの内面が直接的に語られることは一切ありません。
こうした婉曲的な描写は、『フランケンシュタイン』と同じく、異常な物語に現実味を持たせるための構成上の工夫であるとともに、異常心理そのものを未知のままにすることで読者の恐怖感・不安をかきたてるホラー小説の技法でもあります。
しかし、もっと言えば聖書がそうですよね。すなわち、イエス・キリストはこう言った、という弟子の視点とかで語られながらも、肝心な神の言葉・イエスの言葉は直接語られることはないという点で両者は共通しているのではないかと。(ちなみに、アイヨシがここで念頭に置いてるのは新約の方です。旧約の方は知識がないので分かりません。)
神の言葉を語る本と怪物の悲哀を語る本とが同じ手法で語られているとしたらとても面白いと思います。私は神学の知識がないので、どなたか詳しい方がより踏み込んだ検証をして下さればとても嬉しいなぁ、と(笑)。
そうした特殊な構成の割りに、そこで語られているジョージの物語は現実にあったとしてもおかしくはなくて、確かに悲惨ではありますが、ぱっと見は平凡なものです。
ジョージの抱えているトラウマの原因にもなっている幼少期の生活自体は一見地味な物語です。病弱な母親に酒に溺れ暴力を振るう父親。母親の死後、彼は窃盗罪で少年院に送られ、その後叔母夫婦に引き取られます。そこで隣家の娘と恋仲になりますが、娘を妊娠させた後、それから逃げるように軍隊へ入隊します。
淡々と語られる彼の物語は、孤独な彼の境遇・心境を読者に伝えますが、そこには幻想的な要素は一切無く、それどころか実に現代的な子供の虐待を描いた物語として読むことができます。妙にリアルな荒んだ幼少期の物語と、後に明らかになるジョージの異常な行為とが自然に噛みあってしまっているのが、見事でもあり恐ろしくもあります。
そうしたジョージ自身が記した物語の欠落した箇所・曖昧な箇所、彼が隠している心の秘密を解き明かしていく過程は、サイコなミステリとして楽しむこともできます。そこではある一つの結論が導かれますが、にも関わらず、著者はそれを確定的な結末とすることを否定・拒否します。それが、二人称の語りによる”騙り”です。
結末を”騙り”に落としたのは、やはりトラウマと血飲行為を安易に結び付けられることを嫌ったからだと思います。ミステリ的な文脈からは、本書はアンチ・ミステリとして理解されることになるでしょうが、それはミステリマニアの考えすぎというものでしょうね(笑)
ただ、スタージョンが、クイーン名義で発表されている『盤面の敵』の代作者であることはマニアに広く知られていることでして、彼にミステリ作家としての素養があったことは間違いないでしょう。
他方、結末を二人称でぼかしたことによって、物語そのものがフィクションであるという言わずもがなのことが作中で言及されてしまっているわけで、ホラー的な効果も減殺されてしまってます。これもやはり扇情的な読まれ方をされることを拒否したからだと思います。
吸血鬼伝承が広まった要因のひとつとして、嗜血症や淫血症といった精神異常を挙げることができます。こうした倒錯者・性癖を持つ者を吸血鬼という人外のものとして処理したり、あるいはシリアル・キラーという理解不能な殺人鬼として属性化することも、事象を単純化することで問題提起もできますから、有効な方法であることは間違いありません。
しかし、狂人の定義として、自らの正気を疑わない者こそが狂人であるというのは一般的な認識かと思われますが、そうした単純化は往々にして”ミイラ取りがミイラになる”が如く、吸血鬼を笑う者が吸血鬼になってしまう危険性あります(そして、そうした危険を打破するものこそ”文学”だと思います)。
人間は誰でも、時どき淋しくなったりいらいらしたりするんだ。君と同じだよ。そしてみんな、君と同じように、それを解決する方法をそれぞれに持っているんだ(p194より)ということを忘れてはならないでしょう。
そもそも、吸血鬼を滅する者とされるキリスト教においてすら、キリストの肉と称してパンを食し、キリストの血と称してワインを飲んだりと吸血鬼めいた怪しげな儀式(=聖体拝領)を行なってたりするのがあるんですからね(←問題発言?)。
そもそも吸血鬼とは何でしょう? 非常識な行動をする人間に対してそういうレッテルを貼ることができれば、その人間を迫害し、排除することを正当化することができます。しかし、著者は、本書があくまでもフィクションであることを強調し、それによって、そうしたレッテル貼りを徹底的に拒んでいます。第一、実は本書には”吸血鬼”って言葉は一回も出てこないのです。
Q ジョージ、映画に出てくる善玉と悪玉の見分け方を知ってるかい?
A もちろんさ。善い奴が撃たれる時は胸か肩で、悪い奴の場合は腹と決まっているんだ。(p170より)というのはけだし名言だと思いますが、この決断が、最後になって読者に突きつけられることになります。
本書は、アンチ・ミステリであってアンチ・ホラーでもあり、アンチ吸血鬼小説です。しかし、それらはどれも一面的な読み方に過ぎなくて、別に各ジャンルに対してのアンチ的な読み方をしなくとも本書は確固とした物語として成立しています。ただ、その面白さは正直とても説明しづらいです。地に足のついた物語を書いておきながら、煙に巻くような幕引きをしている辺りが読後感の説明に悩まされるところです。強いて言えば、滋味、といったところでしょうか。ひっそりとオススメしたい一冊です。
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