[あらすじ]
1959年、ドラキュラ成婚に賑わうローマ。
吸血鬼への転化を拒みジュヌヴィエーヴに看護をされながら穏やかに死期を待つボウルガードのもとを訪れたのは、闇内閣から密命を受けたスパイ・ボンド中佐だった。
一方、死期の迫ったボウルガードに会うためにローマにきたケイトは、吸血鬼ばかりを狙う殺戮者〈深紅の処刑人〉と遭遇する。
ローマを舞台に行なわれる死闘と陰謀の幕引きは闇の治世との決別を意味するのか? そして世界の行く末は……?
《ドラキュラ》シリーズ第三部。
第三部は1959年のローマが舞台です。第二部は1918年でしたからそれより41年後の世界、第一部の1888年からは実に71年後です。飛ばし過ぎじゃね?(笑) しかし、こうした年代の跳躍は、本書が本質的にはキャラクター小説ではなく年代記だからだと思います。普通の人間を主人公にしてこれだけ長い時代の年代記を書くのは不可能に近いでしょう。タイムトラベラーとしての吸血鬼の特長を巧みに利用することで壮大な年代記を書くことに成功しているわけですね。
時代こそ進んでいますが、ドラキュラがモルダヴィア公女との婚約を発表して、その一方でローマには吸血鬼ばかりを狙った殺人者が暗躍しているという本書の情勢は、まるで第一部の再現です。果たして歴史は繰り返してしまうのか? だからこそ、本書は第一部とは違った歴史、第二部のような大戦へと突入してしまわないような新しい歴史が求められるわけです。それこそが、この年代記が描こうとしているものなのでしょう。すなわち、未来の模索です。
日本には、アニメを中心に戦う美少女・戦闘美少女が活躍する作品がたくさんあります。戦闘美少女とは一体何か? それらはなぜこんなにもたくさんあるのか? といったことはここではひとまず置いておきます。興味のある方は『戦闘美少女の精神分析[→Amazon]』(斉藤環/ちくま文庫)が面白いので(細かいところでツッコミどころは多いように思いますが)オススメしておきます。 それはともかくとして、こうした戦闘美少女たちはよく考えるまでもなく奇妙な存在です。人間の筋力は当然ながら筋肉の断面積に比例するわけですから、細腕で小柄な美少女が屈強な男たちを次から次へとなぎ倒すなんてことができるわけありません。そこで、気とか魔法とか巨大ロボットとか義体とかの概念を持ち出すことで、美少女に戦闘力を与えるわけです。そうした概念の一類型として、吸血鬼という属性は結構便利に用いられているのではないでしょうか? 戦闘美少女の存在に説得力を持たせるためというのも、吸血鬼がアニメ等のジャンルで人気な理由のひとつとして挙げられると思います。
閑話休題ですが、本書の主役は3人の女吸血鬼です。第一部の主役格だったジュヌヴィエーヴに第二部で主役格だったケイト、そして第一部ではボウルガードの婚約者だったペネロピの3人です。3人とも外見は美少女ですが、実際にはジュヌヴィエーヴは本書の時点で五百歳を越えていますし、ケイトやペネロピも90歳近くです。しかし吸血鬼・新生者である彼女たちは老いることはありませんし、身体能力も人間・温血者と並の新生者を遥かに上回ります。まさに戦闘美少女なわけです。
3人の引き立て役として、3人の男性キャラクターが登場します。ジュヌヴィエーヴのもとにはボンド中佐(出典:『007』シリーズ)、ケイトのもとにはマルチェロ(出典:『甘い生活』)、ペネロピのもとにはトム(出典:『太陽がいっぱい』)といった具合です。虚実入り混じった人物の登場は本作でも健在です。この3人の男性キャラは登場シーンこそ印象的ですが、しかしストーリーが進むにつれてどんどん扱いが悪くなっていきます。そのヤムチャっぷりには同情を禁じえません。最後には、そんな奴いたっけ? ってくらい存在感がありません(笑)。
出番が多ければ存在感があるというものではありません。そもそも、本書は《ドラキュラ》シリーズと銘を打つことができるでしょうが、そのドラキュラにしろ第一部から本作まで、登場シーンは実に数えるほどしかありません。
ドラキュラだけではありません。第二部におけるジュヌヴィエーヴしかり、第三部におけるウィンスロップしかり、そして物語の始めから死者となっているボウルガードの妻パミラしかり。これらのキャラクターは、物語中に登場していなくてもその存在感は圧倒的です。
ボウルガードは死を間近にしても転化を望むことはありませんし、ジュヌヴィエーヴも転化を強制しようとはしません。そして、読者もまたそんな二人の姿を自然なものとして認容します(多分)。
それは、”存在していないものの存在感”というものの大切さが本書でしっかりと描かれているからこそでしょう。そして、それは”死”とそのまま置き換えることができます。不死の者である吸血鬼を描きながらも、本書はやはり死にゆく生者のための物語なのです。不死の者によって語られる死の歴史こそが、この怪奇と幻想に彩られた年代記の本質なのです。
だからこそ、本書が最後の最後で見せる実に意外な本格ミステリ的な展開も、実は意外というよりはむしろ必然であることが、”死”という文脈から読み解くことができるのです。
新生者は、一度死んだはずの存在でありながら、”死”を語ることも理解することもできません。しかし、いつどこでどうやって誰が何に何故殺されたのか? そういった死のぎりぎりを理解することはできます。そうした”死の漸近線”を表現することに最も特化したジャンルこそ、他でもない本格ミステリだからなのです。
3人の吸血鬼はボウルガードに近い距離にあった女性です。ボウルガードがいたからこそ、彼女たちは彼女たちでいられましたが、彼の死によって彼女たちの人生は色を失ってしまいます。しかし、本書の結末における本格ミステリの流れの中で、ボウルガードの死後見失っていた己の役割(=本格ミステリにおける記号的な役割)を彼女たちは見つけ、あるいは与えられます。記号的な役割ではありますが、しかし一人でいる限りは決して与えられることのない役割です。この場合で言えば、3人がそろったからこその役割です。それこそが、ボウルガード亡き後の彼女たちに、永遠の現在ではない、本当の意味で”未来が在る”ことを示すことへとつながっているのではないでしょうか?
それにしてもこの展開にはホントにシビレました。第一部で放棄した本格ミステリの枠組みをまさかここで持ってくるとは。虚構と現実の垣根のみならずジャンルの枠をも踏み倒して、貪欲なまでの想像力で描かれた途方もない物語のはずなのに、その構成の巧みさ・精妙さには感服しまくりです。
ということで、トンデモ歴史改変小説であるにもかかわらず、このシリーズは本書で綺麗に完結します。もっとも、解説(2002年時点)によれば、著者キム・ニューマンは本書の続編(JOHNNY ALUCARD)を執筆中ということが書かれていまして、ひょっとしたら本国ではすでに発表されているかもしれません。ただ、もしそうだとしても、本書でこれ以上ないんじゃないかと思うくらいに鮮やかに完結していますから、この読後感を壊さないような続編が果たして存在し得るのかという点で不安はあります。逆に言えば、それだけ本書でのシリーズの幕引きが見事だということでもあります。ホントの本気でオススメです。
絶版だけどね!(笑)
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