文学部唯野教授
著者:筒井康隆(つつい・やすたか)
出版:岩波現代文庫
初刊:1990
定価:800円+税
ISBN4−00−602001−5

[あらすじ]
 唯野仁は早治大学の文学部教授。
 学内政治をのらりくらりと乗り切りながらも、立智大学で非常勤講師としての文学批評講義は学生から大人気。
 そんな唯野先生、実は覆面作家として小説を発表していたのが何と芥兀賞の候補作になってしまい、いつ正体がばれてしまうのか恐々とすることになる……。
 「大学」と「文学」という二つの権威に喧嘩を売った、恐れ知らずの毒笑小説。



 本書は型破りな小説ではあります。ただ、筒井康隆の書いた作品としてはオーソドックスな部類に入るような気もします(笑)。
 本書の目的は明確です。すなわち、大学とマスコミと文学、この三つのコードをひとつのコードに転換できるいいプログラムは作れないものでしょうか(本書p218より)ということです。そのプログラムを具体化するため、主人公である唯野には三つの顔があります。それぞれにパロディの皮をかぶりつつも現実的な描写がなされているだけに、かえってフィクションとしての面白さを際立たせていると思います。

 一つ目は、早治大学文学部の教授としての顔です。
 これが一番ひどいです(笑)。大学内の権力争いも、賄賂が横行したり体を売ったりはまあ想像の範囲内(!)ですが、教授に体を売ってエイズに感染した助手が結局講師になれなかったがため発狂して刃物を持って教授たちを追い回すといった展開となりますと、さすがにドン引きですよ。著者らしいといえばらしいですけどね。
 この大学内の政治模様については、何と実際のモデルとなった大学があるらしいです。興味のある方はネットでちょっと検索してみればすぐに分かりますのでお試し下さい。私は知りません(笑)。こんな教授たちがホントにいたら嫌すぎます。
 こうした学内の政治抗争が語られている意味は、大学での文学論というものが学内の地位との関係では無意味であるということ、仮に有意義なものであったとしても学術的なものとして一部の見識者のみが目をつけるだけであって、一般の読者や文学に興味のある人たちに影響を及ぼすようなことはほとんどないのだという、象牙の塔に対しての一種の諦観をこれ以上ないほどグロテスクに仕上げたものだと思います。

 二つ目は、立智大学での非常勤講師としての顔です。本書の一番の読みどころです。
 非常勤講師として唯野が語る文学批評論は、文学批評の始まりから現在までを、専門的な言葉を交えつつも軽快な口調で、コンパクトかつ的確に講義していきます。
 本書は全部で9章ですが、その章題は「第一講 印象批評」「第二講 新批評」「第三講 ロシア・フォルマリズム」「第四講 現象学」「第五講 解釈学」「第六講 受容理論」「第七講 記号論」「第八講 構造主義」「第九講 ポスト構造主義」と、各章での講義の内容がそのまま章題となっています。この講義こそが本書の中心軸なのです。
 といっても、法学部出身のアイヨシは文学論なんてきちんと勉強したことはないのでよく分からないんですけどね(笑)。だからこそ、本書を読むことで文学論を学んだ気分になれるわけで、そういう意味ではとても助かる本です。
 特に印象に残っているものとして、「第六講 受容理論」で紹介されているイーザーの理論があります。「わからない断片とわからない断片のつながりを見つけ出し、もしつながらなければもうちょっと先の方まで読み進んで、いろいろ推測し、そして隠されたつながりを見つけ出して、その先を予測しながらまた読み進む。つまり全体から部分へ、部分から全体への繰り返しといってもいいわけだよね。そうしているうちにこの『空所』は消滅するってわけ。消滅したらどうなるのか。その文学作品から首尾一貫した意味が組み立てられるだろうというわけです」(本書p232より)というものなんですが、これはアイヨシ自身の本格ミステリの読み方を見事に指摘されちゃったような感じです。受容理論なんてそれまで聞いたこともありませんでしたが、こんな風にミステリを読んでるような心当たりは確かにあります。結構感動しました。文学論も面白そうですね(笑)。
 閑話休題ですが、こんなに専門的な内容なのですから素直に評論にすればいいものを、そうはせずに小説にしたことにはどんな意味があるのでしょうか? おそらく、文学批評論も小説内にとりこまれてしまえば、それは批評論ではなく文学作品そのものです。そうなると、それを批評とするときには、文学批評論をもって文学批評論を論じるという奇妙な事態が発生しかねません。そうした事態に陥ったときに文学論者はどのように対応するのかという問題意識、あるいは遊び心のようなものがあったんじゃないかと思います。
 また、本書ではそれこそたくさんの批評論が紹介されて、その内容もどんどんと難しくなっていくのですが、決定的な批評論というものがないのが現状というとりあえずの結論は、こうしてネットに書評・感想を適当に書き散らしている立場としてはとても有難いです。一般の読書好きにとって優しい本だと思います。

 三つ目は小説家としての顔です。
 唯野教授は文学理論の実践・フィールドワークとして作品を書いているのですが、その本名・素性を世間に対して明かそうとはしません。編集・出版社サイドは唯野の名前を世間に公表しようとしますが、それは出版産業自体の資本の理論(平たく言えば宣伝目的)に基づくものです。
 一方、唯野の側からすれば実名を公表するなんてとんでもないことです。それはデスノートに名前が書かれるのが怖いからではなく、大学での自らの地位が絶望的なものになり、ひいては新たな文学理論を確立したいという唯野の野心が達成できなくなるからです。なぜなら、批評と作品との力関係でいえば、批評は作品なしには成立し得ないわけで本来なら作品の方が圧倒的に上位にあります。だからこそ、批評しかできない学術関係者にとって実際に小説を書いた教授など目障りどころか自分たちの存在意義そのものを否定しかねないわけで、徹底的に排斥されることになります。
 それが分かっているだけに唯野は小説家であることを周囲の大学関係者には秘密にしていました。しかし唯野の作品が芥兀賞(もちろん芥川賞のパロディ)の候補になってしまい、しかも実際に受賞してしまうことで、ついにマスコミにその正体をすっぱ抜かれてしまうことになります。
 作中の言葉を借りれば文壇ジャーナリズムの規範と大学というものの規範との対置ということになりますが、その対置から取り残されているものこそが実は小説を執筆する本当の動機なのじゃないかと、最後のシーンを読んで思いました。

 スキャンダラスで滑稽な面ばかりに目を奪われがちですが、批評論の勉強になるという意味だけではなく、実は結構真面目な作品だと思うのでオススメです。


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