| 残像に口紅を |
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著者:筒井康隆(つつい・やすたか) 出版:中公文庫 初刊:1989 装丁:カバー画 船越桂 定価:743円+税 ISBN4−12−202287−8 |
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[あらすじ] 世界から言葉が消えていく。 「あ」が使えなくなると、「愛」も「あなた」も「朝」も消えてなくなってしまう。 言語が消滅するとその言葉によって成り立つ概念自体も消えてしまう世界の中で、そのことを認識しながらも少しずつ少なくなっていく言葉によって自らの生活風景を描写していく小説家の姿が描かれている、驚愕の実験的長編小説。 「しゃべれるもんだね。 ひとつの列がなくなってもさ」 「ひとつ間違ったらそろそろ口にするかもしれんな」 (『幽☆遊☆白書 13巻[→Amazon]』[冨樫義博/ジャンプ・コミックス]p134より) 本書の狙いとするところは、物語の冒頭で一応語られています。つまり、現代人なら言語や記号にさえ感情移入できるようでなけらばならない(中略)感情移入の対象を、もはや動物だの無機物だのにとどめることなく、他ならぬ読者をその感情移入へと導くべき言語、その言語そのものに対して行う(p16〜17より)ということです。 本書が中央公論社から単行本で刊行されたのは1989年ですから、現在の『萌え』論(参照:『萌えとは何ぞや?』)のようなものとはまったく無縁のはずです。しかし、「(萌え)擬人化[参考→アスペクト『擬人化たん白書[→Amazon]』]」や、「ツンデレ」などのキャラの属性・類型化論などは、言語や記号にさえ感情移入できるようでなければならないとする筒井康隆の見解が卓見であったことの証明に思えてなりません。 で、本書ではさらにそれを推し進めて言語というか言葉、音(おん)にまでそれを適用していこうというわけです。つまり、「文字落し(リポグラム)」の手法による長編小説です。 一番最初に消えるのは「あ」ですが、それによって読者が惜しむのは「あ」という文字そのものか、あるいはその文字よって作られる「あさ」や「あなた」といったイメージなのかを問おう、というわけです。正直、この辺りには論理の飛躍というか誤魔化しがあるようにも思います。「あ」が消えれば「愛(あい)」もなくなりますが、それによって確かに「愛(あい)」というイメージを惜しむ読者(大半?)もいるでしょうが、ルールによって「愛(あい)」という言語が消滅してしまうことを惜しむ気持ちもあるわけで、この峻別はどのように考えたらよいのでしょう? てなわけで、本書の意義について、冒頭での主人公とその友人である評論家とのやりとりはちょっと眉唾だと思っています(もちろん、私が作者の意図を正確に汲み取れていない可能性もあります)が、だからといって別にケチをつけるつもりは全くありません。なぜって、少しずつ文字が消えていく中で果たしてどういった小説が書かれていくのか? その試みは単純にとても面白そうじゃないですか。そして、その面白い試みがなされている本書は、どうしたって面白いに決まっているのです。 本書はメタ小説です。登場人物の誰もが消え行く言葉というものを意識していないのであれば、その言葉に対しての愛惜が作中で描かれることが全くなくなってしまうので、作中の主人公その他何人かの人物が自分たちを小説内の存在と意識しつつ物語が進んでいくことには必然性がありますが、『超虚構』や『メタフィクション』といった概念を提唱した著者だからこそこれだけのものが書けたともいえるでしょう。 実際、使える文字が少しずつ減っていくというルールの中で小説を書こうと思ったとして、いっそのこと本書を前提とした二番煎じを書こうとしても、なかなかこれ以上のものができるとは思えません。それだけの完成度なのです。 消えいく言葉の選択=制限された文字内でどうやって長編小説としてストーリーをつないでいくか? あまりにスマートに文章が書けちゃったら文字制限の意味がなくて面白くありませんが、だからといって最初からたどたどしくても読むのが苦痛です。この辺りのさじ加減・工夫が実に絶妙です。 どうせなら普段書かないことをやってみよう、とかいって半ば唐突に濡れ場のシーンを入れてみたり、言葉が制限されているのに無理やり講演の仕事を与えてフォーマルな言葉使いを主人公に要求してみたり、いよいよ語尾が難しくなってきたら過去の回想シーンにして「た」などの過去形にすることで急場をしのいでみせたりして、とにかく面白いです。 普通の小説におけるストーリーによる物語の進展とは違いますけど、次のページをめくる楽しみが本書には確かにあります。 筒井康隆は小説家として、表現の自由に対する規制・言葉狩りに対してとても高い問題意識を持っています。1993年10月には、短編『無人警察』の教科書掲載に際して日本てんかん協会が抗議したことを契機にいわゆる断筆宣言を行なったりして表現の自由の危機を訴えたりしました(その後、1996年12月に執筆再開)。 そういう作家ですから、本書の「文字が消えていく」という設定自体が、言葉狩りという風潮を逆手にとったシニカルな視点に基づくものではないかという推測はできます。全部じゃなくともそういう意図が少しはあると思います。ですが、本書を普通に読んでる限りでは、そうした背景は感じられません。自分で決めたルールで好きなようにひっちゃかめっちゃか書くというその姿に筒井康隆の凄さを見たように思います。 ちなみに、こうしたルールがあると分かれば、ホントにそれが守られているのか逐一チェックして、もし間違いがあったら指摘してやろうウヒョヒョヒョ、と思うのが人情でしょう。ですが残念。本書巻末の解説でルール違反が具体的に指摘されちゃってますので、見つけてもその人の手柄にはなりませんし、書評サイトとしてのネタにもならないのであしからず(笑)。 ってゆーか、間違いがあるのが少々意外です。本書を執筆する際に、作者はわざわざワープロを導入して、使えない文字に相当するキーに赤丸のシールを貼ったということです(『小説のゆくえ[→Amazon]』[筒井康隆/中公文庫]所収『ネット狂詩曲』p311より)。にもかかわらず間違いが発生してしまったということは、おそらくキーボードを打つ技術があまりに早く上達してしまったためにブラインドタッチをしてしまったからじゃないかと思います(笑)。 というわけで、言葉遊びが好きな人には文句なしにオススメの一冊ですが、普通の小説にちょっと飽きてきたという方にもアクセントとして是非。 |