虚人たち
著者:筒井康隆(つつい・やすたか)
出版:中公文庫
初刊:1981
装丁:カバー画 トーミエ作「四人の人」
定価:705円+税
ISBN4−12−203059−5

[あらすじ]
 同時に、しかし別々に誘拐された妻と娘の悲鳴が聞こえる。
 自らが小説の登場人物であることを意識しつつ、主人公は二人を救出しようと捜索するが、その時間の流れ・空間のつながりは主人公に苦悩と混乱を与えるものだった……。

 第9回泉鏡花賞受賞作品。



 本書についてよく言われるのが、成功作なんだけどつまらない、ということです。何じゃそれ? と思われるかもしれませんが本当なので仕方がありません。
 アイヨシだって、最初は面白そうな誘拐ミステリーだと思って本書を手に取ったのです。妻と娘が同時に誘拐されるのです。そしたら、例えば犯人双方が主人公に「警察には知らせるな」と言ったらどうなるでしょう? 体はひとつしかないのですから、警察に相談せずに事態を進展させることは困難を極めます。結局、警察に通報することになるでしょうが、それにしたって主人公は両方の誘拐の対応に追われることになるわけですし、妻と娘とどちらを優先して対応したらよいのでしょう? その混乱たるや想像するだけでも面白そうな小説が期待できるじゃないですか。
 そんな希望を胸に本書を読み始めたがばっかりに、最初はホントにガッカリさせられました。ふざけるなと。それでも我慢して読み進めて、本書がメタ小説で、主人公がそうしたメタ小説のピエロ的な役割をさせられているということが納得できて、ようやく受け入れることができましたが、それでも本書を面白いと思えたのは、読了後に別の小説を読んだ後にでした。

 本書がつならない小説であるにもかかわらず成功している原因は、本書で作者が描こうとした構想そのものにあります。それは、『小説のゆくえ[→Amazon]』[筒井康隆/中公文庫]所収のエッセイ『メタフィクション構想』で語られているのですが、「時間」と「人物」と「事件」という三つのメタフィクション的要素に対しての批評的態度・挑戦がそれです。

<「人物」について>

 小説の主人公をその小説内に存在する「主人公」として描くのは当然です。繰り返しますが当然です。しかし、本書ではそこを疑ってかかります。ですから、今のところまだ何でもない彼は何もしていない(p7より)などという奇妙極まりない書き出しで本書は始まります。
 まず、作中の人物に小説内・虚構内の人物であることを自覚させます。これによって作中の人物を「虚構内存在」として存在させることがその狙いです。虚構性を認識しているせいなのでしょう、作中の人物たちは常識を平気で捻じ曲げて、その場に居合わせてもいないのに会話を始めたりします。誘拐されてるはずの妻と娘が主人公に向かって「助けて」と話し出し、自分のいる場所の手がかりとかを教え始めるのです(しかも娘の方は意識を失っている)。何とも不条理な(笑)。
 しかも、主人公もその他の人物も、主人公が主人公であることを疑い、「この事件」に関しては主人公が主人公であるということをいちいち確認した上で行動したり会話したりします。主人公は息子と二人で妻と娘の行方を捜すことになりますが、息子は、これはお父さんの事件であって僕の事件じゃない、僕には僕の事件があるというスタンスで、必要以上に深入りしようとはしません。確かに、小説において何らかの責任を背負うのが主人公であるというのは確かにお約束のひとつですが。そういうわけで、主人公以外の人物は主体性を要求されると困惑しますし、それを放棄できるとなれば喜々としてモブキャラになるわけで、とても変な意味での人間の書かれ方がされています(笑)。

<「時間」について>

 普段は読んでてあまり意識することはないですが、通常の小説は時間の流れを無視しています。ストーリーに不要な場面はじゃんじゃんカットしますし、逆にほんの一瞬の場面でも必要とあらば字数を割いて濃密な描写をしたり、あるいは唐突に回想シーンが入ったり、時間の伸張・往復は自由自在です。それというのも読者にストーリーを面白く読んでもらうための作者側の工夫であり腕の見せ所なわけです。しかし、そうした手法も当然のように広まってしまえば「お約束」として批評の対象となるわけで、本書で著者がやらかしてることこそまさにその「お約束」に対する挑戦なのです。
 本書は、「原稿用紙1枚分が1分」というルールで物語が進んでいきます。普通ならカットするところもカットしません。

(余談ですが、本書のの書評・感想をネットで探してみると、時間についての試みを「1ページが1分」と説明している方が何人かいらっしゃいます。しかし、p8で6時6分となってて、それから70ページ後のp78で7時23分になっているのですから、1ページ1分では辻褄が合いません。
 これは、例えば『残像に口紅を』のp32で言及されているとおり「原稿用紙1枚分が1分」というのが正しく、1ページ1分というのはそれを誤解したものだと思います。  確かに、読者的には1ページ1分の方が分かりやすいですが、それだと単行本から文庫みたいに版型が変わったときに大変ですからね。)

 車で移動するのであればその風景を描写しますし(「あなたはなぜそんなにまるで描写するように町並みの店店を眺めるのですか」p57より)、食事中であればその味やら歯応えやらを無駄に無意味に描写(「なぜそんなに描写するような食べかたをするのです」p69より)して字数を費やします。極めつけは主人公が一時的に意識を失う場面です。なんと空白・活字欠落が何ページも続きます。普通だった落丁返品ものですが、本書の場合は確信犯なのでどうにもなりません。念のため、本文の終りにはそうした空白が作者の意図によるものだという著者自身の注意書きもあります。

(ただし、p175の15〜16行目の”ガラ ス・ドア”[アイヨシが持ってるのは初版3刷]はミスによる活字欠落じゃないかと思います。)

 しかも、そうした描写が無駄で無意味なことは作中の登場人物たちも承知しているので、つまり、無駄・無意味を自覚するための無駄・無意味なのです。そうなると無駄でも無意味でもないことになるわけですが、どっちにしても通常の小説としてのテンポはズタズタで、読み心地は最悪です(笑)。

<「事件」について>

 虚構(フィクション)では、現実にはあり得ない事件を描くことが可能です。その最たるジャンルがSFでしょう。しかし、実際には、現実でも虚構の先を行くようなとんでもない事件が起こる(=事実は小説より奇なり)わけで、そう考えると、事件の奇特性ばかりを追及しても、それは虚構独自の事件であるとは言えません。そこで著者が考えたのが「同時多発異種事件」です。つまり、「同一人物の上に事件がふたつ以上」「同時に起こり」「その二つ以上の事件がそれぞれ互いに無関係である」という事件(『小説のゆくえ』所収『メタフィクション構想』p64より)こそが今まで虚構化されてこなかった事件であるとしています。
 もっとも、著者はこの定義を導き出す前に警察小説を除外してますが、その除外はこの定義から考えると必ずしも成功していないように思うので、定義としてどうかとは思います。しかし、言いたいことは分かります。一つの虚構では一つの事件があれば物語として十分に成立しますし、もし二つ以上の事件を生じさせるのであれば関係性を持たせなければ意味がありません。ってゆーか、関係ないのなら二つの事件で二つの小説を書けばよいのです。その方が小説家としてもアイデアの有効活用ができるでしょうし、読者だって混乱せずにすみます。まったく何を考えているのやら(笑)。そうした考えに基づいて、本書では二つの誘拐事件が無関係に発生してるわけです。
 しかし、それだけではありません。事件とは何か? ということについても本書ではやはり疑いの目が向けられます。誘拐とは非日常的な事件ですが、そうした事件を描写するために小説ではしばしば日常の省略が行なわれます。しかし、そもそもそうした日常を無視した非日常というものがあり得るのか? というわけで、誘拐事件の真っ最中であるはずなのに、主人公はいきなり立ちションしたり勤務先に行ったりします。
 横道に逸れ過ぎだろ! と読者の誰もが思うことでしょうが、そこからさらに著者は畳み掛けます。

本来の事件とは何かと彼は思う。それすら存在しないのではないか。あるいはこれから起こるのかもしれない。現実に生存する個人にとって本来の事件とはその個体の誕生と死亡のふたつだけだから話は簡単だ。しかし事件の発生が必ずしも誕生を意味せず終りが死亡を意味しない世界では各個人がそれぞれ自分にとって本来の事件を見極めなければならない。ないという可能性があるにもかかわらずだ。(p239より)

 こうした個人の生死と事件との関係性については、『戯言シリーズ[→ネタバレ書評:ネコソギラジカル]』でも共通の問題意識が持たれていると思いますが、こんなことを考えて、しかも作中の登場人物に述べさせちゃったら、いったいどんな終わり方を以ってこの小説の幕を閉じたらいいのか途方にくれちゃいますが、まあ一応終わりますので安心して下さい。後味は悪いですが(苦笑)。


 上記の他に本書の特徴的な点として、読点(「、」)が一切ないというのがあります。ただでさえ筒井康隆という作家は読点が少めの作家ですが、さすがにゼロというのは長編では本書だけでしょう。その意図には、『句点と読点』(『串刺し教授[→fukkan.com]』[筒井康隆/新潮文庫]所収)という短い考察において語られています。
 要約しますと、昔は読点なんてなかったし、読点の濫用によって読み飛ばしが可能になったことが現代人の文章読解力を衰えさせているのではないか? それに、たいていの文章は音読されることはないのだから、と考えて意識的に読点を省いた、ということだそうです。その結果として、読みづらくてかなわん、という意見はひとつもなかったそうですが、ホントでしょうか? 恥を承知で言わせてもらえば、やっぱりあった方が読みやすいと思いますよ(笑)。ちなみに、『虚航船団』の後半での著者自身の独白ともとれる箇所は、『句点と読点』で述べられているとおりに読点どころか句点も段落もなく、だらだらと著者自身(?)の思考が、丸っきり適当というわけでもないのですが、ダラダラとつづられています。これは、本来の人間の思考には句点・読点はないという著者の考えをついに具現化してみちゃったものといえるでしょう。
 それはともかく、本書の登場人物は虚構内存在ですから、通常の小説と違って登場人物への感情移入が困難と言いますか勝手が違います。そうしたときに、読者である私たちが普段行なっている思考には確かに読点はないでしょうから、読点なしの文章というのはそうした意味ではリアルであり、それによって多少なりとも虚構内存在というものにリアリティを持たせたかったんじゃないかと思ったりもします。
 また、段落分けもほとんどありません。カギカッコ閉じでしか次の段落になりません。これは何となく分かります。上述したような事件について懐疑的な態度をとってしまうと、段落による出来事の整理をするわけにはいかないわけで、そうすると必然的に段落による文章整理も否定されることになるのだと思います。
 そういうわけで、本書は読点がなく段落分けも少ないので、文章がだらだら続いてとても読みにくいです。本書で試みられている構想自体は面白いとは思いますが、小説として面白いかと問われれば、やはり否定するしかありません。
 ところが、本書を読んだ後に普通の小説を読んでみますとあら不思議、何だか今までより小説がとても面白いものに感じられるのです。お約束を疑うことでそのありがたみが実感できるということだと思いますが、そうした実感を持った上で改めて本書を読み直してみると、今度は素直に面白いと思えるようになっていました。

 てなわけで、褒めてるんだか貶してるんだか分からないことをつらつらと書いてみましたが、上述してきたことは本書の試みのほんの一部を要約しただけのものに過ぎません。他にもたくさんの(無駄な)技巧・アイデアが組み込まれています。アイヨシがよく分かっていない部分もたくさんあることでしょう。
 決して素直に楽しめるような本ではありませんが、小説そのものへの好奇心を満たすためには格好のテキストだと思いますので、気が向いたら是非。


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