罪と罰(上/下)
原題:Преступление и наказание
著者:フョードル・ミハイロビッチ・ドストエフスキー
(Фёдор Михайлович Достоевский)
訳者:工藤精一郎(くどう・せいいちろう)
出版:新潮文庫
装丁:カバー 花輪晴夫
初刊:1866
定価:上下巻各583円+税
上巻のISBN4−10−201021−1
下巻のISBN4−10−201022−]

[あらすじ]
 鋭敏な頭脳を持ちながらも貧窮により大学を中退してしまい、心身ともに疲れ果ててしまったラスコーリニコフは、学生時代に自らが打ち立てた理論と、困窮と、偶然得てしまった機会とによって高利貸しの老婆を殺害し、さらに図らずもそれを目撃してしまった老婆の妹まで殺してしまう。
 ラスコーリニコフは自らの犯した行為によって精神を苛まれ犯罪の発覚を恐れるが、彼の行為は自らが考えていたよりも場当たり的であったにも関わらず物的証拠を残していなかった。
 一人良心の呵責に耐えるラスコーリニコフであったが、たまたま知り合った娼婦ソーニャとの触れ合いによって、救いの道を歩み始めようとするが……。



これは病的な頭脳が生みだした暗い事件です、現代の事件です、人心がにごり、血が《清める》などという言葉が引用され、生活の信条は安逸にあると説かれているような現代の生みだしたできごとです。
(本書下巻p322より)


 江戸川乱歩・松本清張・共編の『推理小説作法 あなたももっと書きたくなる』(光文社文庫)は、推理小説好きの読者のための書き方の作法を、編者二人を始め数人が多角的な視点から平易に指南している小論稿集です。
 その中に、荒正人の『推理小説のエチケット』という論稿が収められています。その論稿から、少し長めの引用をします。
 探偵小説は、市民社会の産物だと言われている。ポー、コナン・ドイル以来、探偵小説は、イギリスやアメリカに栄えている。〈中略〉また、ロシヤとか中国などのような独裁国や遅れた社会には、ほとんど根をおろさなかった。〈中略〉そして、この現象は、イギリスやアメリカが、民主主義のもっとも進んだ国であったという点から発しているのだ。いや、探偵小説は、民主主義を前提にしているとさえ言える。
〈中略〉
 容疑者が検挙される。民主主義の発達していない社会においては、拷問によって、犯行の事実を告白させる。こうした社会では基本的人権が認められていないから、容疑者、すなわち犯人という扱いが許されていたからだ。〈中略〉だが、基本的人権の確立に伴って、拷問はしだいに禁止された。探偵は、拷問をしない。暴力にたよらずに、犯人を突きとめるには、探偵という手段が有効である。〈中略〉とにかく暴力の禁止は、市民の希望であり、理想である。だから、探偵の誕生は市民の感情を満足させたわけである。
(『推理小説作法』p140〜141より)
 私は、基本的には、上記の引用文に記されているような当該論稿全体の趣旨は慧眼だと思っています。ただ、何事にも例外というものはあるもので、本書『罪と罰』はロシア文学を代表する傑作で、しかもいわゆる倒叙ミステリの嚆矢として知られるオースチン・フリーマンの『歌う白骨』が刊行された1912年より遥か以前の1866年に刊行されている、非常に優れた倒叙ミステリ(犯人側の視点で書かれたミステリ)なのです。
 ドストエフスキーの作品を捕まえてミステリ呼ばわりすることに違和感を覚える方もいらっしゃるかもしれませんが、ミステリ界において、本書は一般文学作品との境い目として名前が挙がることも多いです。さらに、例えば最近では同じく倒叙ミステリである『少女には向かない職業』の作中で本書について言及されているとおり、少くとも本書をミステリな作品であると捉えることは、それほど独創的でも突飛なことでもありません。
 江戸川乱歩によれば、探偵小説とは、主として犯罪に関する難解な秘密が、論理的に、徐々に解かれて行く経路の面白さを主眼とする文学である(光文社文庫『江戸川乱歩全集第26巻 幻影城』p21より)と定義されています。この定義に素直に当てはまれば、本書は間違いなく探偵小説(ここでは、探偵小説=ミステリ〈あるいは本格ミステリ〉の意として用いています)と呼べると思います。

 本書の主人公であり殺人者であるラスコーリニコフは、優れた頭脳と革新的な思想の持主ですが、困窮ととそれによる身体の衰弱、精神の混濁、偶然得た機会とによって金貸しの老婆とその妹を殺してしまいます。犯行は机上のものとは違う経路を辿りましたが、それでも物証を残すことなく終えることができました。
 そんなラスコーリニコフと対峙するのが予審判事ポルフィーリイです。彼は、ラスコーリニコフが学生時代に書いた論文の理論――人類は凡人と非凡人とに大別され、凡人は現行秩序に服従する義務があるが、非凡人は全人類のために新しい秩序を作る者であり現行秩序を踏み越える権利がある――からラスコーリニコフの動機に着目します。さらに警察署での態度・対話、殺人現場の訪問、町人の証言などから心証的にはラスコーリニコフが犯人であると確信します。しかし、証拠がありません。
 そこで彼はラスコーリニコフと接触を持ち、精神的に追い詰めることで自首させようとします。この追い詰め方が憎らしいくらい論理的なのです。
 普通は、どんな形であれ自白させればよいと思われがちですが、ポルフィーリイは恐ろしいくらいに有能で実務的に、けれども真摯な態度でラスコーリニコフに迫ります。ポルフィーリイはラスコーリニコフの論文・思想に理解を示し、この犯罪の行なわれた動機を導出します。この意味で、本書においてラスコーリニコフの一番の理解者は彼であるといっても過言ではありません。更に彼自身の心証をラスコーリニコフに告げることでプレッシャーをかけ、ラスコーリニコフに自白を迫ります。その一方で彼は、狂気による自白・理性を欠いた状態での自白を恐れます。精神的に衰弱した状態で自白されても後に否認されたら信用性を失いますし、更に、一度起訴しておきながらその後に無罪となってしまっては、一事不再理の原則(ある事件について判決が確定した場合に、同一事件について再び公訴の提起をしてはならないという刑事訴訟法上の原則)によって真実が闇に葬られてしまう恐れがあるからです(ただし、一事不再理はアイヨシの深読みですが)。
 また、物証はないけど嫌疑が濃厚だという場合に、犯人の良心に訴えて自殺を仄めかすというのがミステリでは時々あります。しかし、ポルフィーリイはラスコーリニコフの健康上の心配までします。本書の場合、無実であるにもかかわらず勾留されてしまっている容疑者がいるために、ラスコーリニコフに黙って死なれてしまうとその者が犯人として裁かれてしまう恐れがあるからです。この無実の者の処遇を、ポルフィーリイはラスコーリニコフに対する揺さぶりとして活用するとともに、もし自殺するなら一筆残してくれとまで言います。すごい奴です(笑)。
 そうしておきながら、もし自首するなら自分がラスコーリニコフを疑っていたことはなかったことにして、自発的に自首したものとして扱うと言って彼に自首を勧めます。アメとムチによる典型的な、しかし完璧に民主的な方法でラスコーリニコフに自白を迫ります。
 これほどまでに民主主義的・自由主義的な探偵手法が採られていることは、書かれた時代を考えるとホントに驚きなのですが、本書に込められた著者の思想の強さゆえに、暴力を排する観念的な趣向の強い作品となったのだと思います。本書は確かに思想小説ではあるのですが、その思想には冷徹な視点によってえぐりとられた時代・現実が根拠となっています。そうした思想によって構成された小説はまさに論理的なものです。
 大岡昇平・編『ミステリーの仕掛け』(社会思想社)という本(←絶版ですが・笑)に所収の『現代の神話、推理小説――読者が参加する世界創造』(栗田勇・著)という論稿に、次のような記述があります。
 現代においては、犯罪という問題の設定によって、人間の生態的分析が小説に求められているということもできる。そして、また逆に、犯罪によって、はじめて、もっぱら、生産社会の抽象的な装置にすぎなかった、たとえば警官とか、会社とか、銀行や、部屋や、太陽や雨風、そしてひとつの表情までが意味をもった現実感を獲得することができる。犯罪は、生産組織に解体してしまった人間関係の破片を、もう一度、反組織という鏡にうつし出す機能をもたらしたのである。(p91〜92より)
 この文章は推理小説・ミステリ一般について述べられているものなのですが、本書についてもそのまま当てはまるでしょう。殺人者である青年の苦悩が、当時のロシアの状況、ペテルブルグという都市の社会風俗を生き生きと克明に描き出しています。
 これらの点を踏まえると、本書を本格ミステリと見ることに何のためらいもありません。もっとも、殺人事件によって社会問題をもストーリーに取り込んでいる点に着目すると、いわゆる社会派ミステリーの始祖ともいえるのかもしれません。
 閑話休題ですが、とにかくポルフィーリイは真実においてラスコーリニコフを完全に追い詰めますが、それでも彼を自白させるまでには至りません。なぜならば、結局のところ物証がないのに加え、ポルフィーリイの知性がラスコーリニコフの不安定な自我における優れた知性を呼び起こして皮肉にも安定させてしまうからです。探偵の存在による犯罪者の発生という探偵小説の皮肉がここにあると思います。

 しかし、ラスコーリニコフは最後には自首します。
 それは、ポルフィーリイの追求によるものではありません。娼婦ソーニャとの偶然の出会いによるものです。そこでの彼女との対話、聖書の解釈・神との接し方、彼女の自己犠牲の生き方に触れることで、ラスコーリニコフは彼女に真実を告げます。そうして自首を決意します。ホントはソーニャに真実を告げた時点でラスコーリニコフは一度自首しようとするのですが、その後のポルフィーリイとの対決が彼を元気付けちゃって自首を遅らせてしまいます。試合に勝って勝負に負けた探偵の姿がここにあります(笑)。
 しかしながら、ソーニャとの会話にどのような意味があって、何がラスコーリニコフに自首を決意させたのか? それを説明するのはとても難しく、本書が文学作品・思想小説として語り継がれている所以だと思いますが、ミステリとしては瑣末なことです(コラコラ)。

 ちなみに、江戸川乱歩は、本書とアイルズの『殺意』とを比較して、
『殺意』はその主眼点が犯罪経路の描写とその発覚のスリルに置かれているのに反し、『罪と罰』はそういう点にも筆力が費やされてはいるが、主眼は神と人間の問題にある。アイルズのは哲学小説ではないが、ドストエフスキーのは哲学小説である。随ってアイルズその他の心理的スリラーは倒叙探偵小説に属し、『罪と罰』はこれに属さないのである。(光文社文庫『江戸川乱歩全集第26巻 幻影城』p53より)
として、本書を探偵小説=ミステリから除外しています。
 しかし、罪を犯したラスコーリニコフの苦悩・良心の呵責は心理的スリラー以外のなにものでもないと思いますし、加えて、他の倒叙ミステリにはないリアリティがあります。それに、ポルフィーリイとの対決における緊迫感・緊張感は本格ミステリとして吟味する価値のあるものだと思います。また、殺人者の動機についてここまで詳細に検討しているのも珍しいと思います。

 そんなわけで、文学作品としてじゃなくてミステリとして十分オススメです。
 しかしながら、本書には読み難いという致命的な弱点があります。ただでさえ翻訳小説は読み難いのが多いですが、本書は特に酷いです。文章に癖があるとか句読点が独特だとか色々ありますが、個人的に一番苦労したのが、登場人物の呼称です。同じ人物に呼称がいくつもあってコロコロ変わったり、「彼」や「彼女」にすればいいのを何度も何度も長い名前を繰り返したり、原文に忠実に訳しているからだとは思うのですが、とにかく読み難いです。もう少し何とかならないかと思います。私なんか、おかげで登場人物が実際より多いように錯覚しそうで困りました。叙述トリックものじゃないんだからさ(苦笑)。


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