| 壺中の天国 |
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著者:倉知淳(くらち・じゅん) 出版:角川文庫 初刊:2000 装丁:カバーイラスト 小岐須雅之 定価:819円+税 ISBN4−04−370901−3 |
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[あらすじ] 静かな地方都市で起こった通り魔的連続殺人と、事件発生後にばら撒かれる「電波系」怪文書に、平穏だった町は大騒動に見舞われる。 「電波系」怪文書は一体何を意味しているのか? 犯人の目的は? そして、互いに無関係に見える被害者たちを結ぶ”ミッシング・リング”は存在するのか……? 第一回本格ミステリ大賞受賞作! 「でもね、普通に起きてる犯罪――いつも新聞に載ってるような犯罪なんて、ほとんどお金が動機だろう。強盗、保険金殺人、汚職、利権争い――みんなお金が原因だよね。だからといって、犯罪が起こるのはお金のせいだから、資本主義という社会形態そのものを規制するべきだ、なんて今はもう誰も云わない。そのくせごくたまに、こういう背景の事件があると、一斉におたく叩きを始める――考えてみれば不思議な話だよね」 (本書p421より) 本書はサブタイトルとして「家庭諧謔探偵小説」ってあります。 稲岡市という地方都市に暮らす主婦・知子を主人公として、彼女の父と娘の三世代三人を中心とした日常が淡々と描かれているだけです。そこにときどき「電波系」怪文書と、被害者たちが殺されるまでの描写と、謎の人物が被害者たちに見立ててフィギュアを作成している描写とか織り交ぜられる形になっています。 誰だかが云った格言にもあるけれど「日常の中に入り込める物語はない」ということなのだ。どんなに猟奇的な事件が身近で勃発しようとも、当事者以外の人間は日常から逃れられない(本書p311より)というように、基本的には家庭小説的な描写が多い本書の場合、殺人事件が発生しても、それらが同じ街を舞台にしているにもかかわらず、ずーっと両者はパラレルなものとして話は進んでいきます。ただ、最後の最後でようやく日常パートにおいて殺人事件の推理がなされ、そこで事件の謎が解消された途端に、つらつらと語られてきた日常の生活の中にとても大胆に伏線が張り巡らされていたことが明らかになり、事後的にスーッと本格ミステリならではの読後感を満喫することができるという、そんな構成になっています。 本書の犯人は、全能にして全知の存在から電波を受信し大宇宙の意思は大いなる意思であり(以下電波な文章が延々続きますが省略。本書p111より)云々かんぬんというような、怪しさ全開の「電波系」怪文書がばら撒かれます。本来なら馬鹿馬鹿しいことこの上ないのですが、殺人事件の犯人しか知りえないことが書いてあることから、事件の真相を知る手がかりとして注目せざるを得なくって、いくつもの解説・解釈が開陳されることになりますが、それらももっともらしいようで実は電波と変わらないという、かなり毒のある展開が楽しめます。 それとの対比で面白いのが、本書の登場人物たちがいろんな趣味を持っていることです。作中で言うところの壺中の天――世俗を忘れさせる理想郷――を持った人物、主人公の知子の趣味は盆栽ですし、その他にもラジコンとかBL小説とかフィギュア製作とか、余人には理解不能な趣味を持った方々が何人も出てきます。それらの趣味の世界と現実との折り合いの付け方は様々です。 犯人の場合、その趣味とも言える妄想の世界に浸り切っているうちは社会的には無害な存在でした。しかし、そこに孤独を覚えてしまったがために妄想の世界が外界との接触を求めて、その結果、殺人事件にまで発展してしまいました。 かといって、壺中の天を守りつつ、なおかつ他者の理解を求めようとするのも実際大変です。無理解な人間に壺の中に入られてしまうとせっかくの理想郷が台無しです。壺との付き合い方が本書のテーマのひとつであることは、タイトルからも明らかでしょう。 オタク的な趣味の世界を本書では壺中の天に例えていますが、そんなオタク擁護的な記述が本書には結構あります(笑)。昨今の萌え論とそれに付随するオタク理解・礼賛(?)の方向性と相通じるものがあるといいますか、その先駆けともいえる気がします。それらの代表例としてこういった何冊かの本を挙げることができます。壺を持ってる人だけが社会との関係性を模索するだけでなく、社会の側からも壺を持っている人を理解しようとしている、というのは一面的で単純な見方だとは自覚していますが、そういう風に本書をまとめてしまうことも可能ではあるでしょう。 それにしても、本書の怪文書はそれだけ単独で読んでもなかなか笑えます。現実の怪文書は面白おかしく読んでもどこか”イタさ”を感じずにはいられませんが、その点、フィクションの「電波系」怪文書なら安心です(笑)。 この犯人の怪文書を電波系とか、あるいはその動機を妄想とか、そういう非常識なものとして当然のようにカテゴライズしていますけれど、本書においてはそういう決め付けは確信犯的に行なわれています。 例えば、作中だと血液型占いなんかが例として挙げられていますが、科学的根拠がないでたらめな虚妄だという点ではそういう迷信と妄想とは五十歩百歩で、妄想と正常の境界というのは曖昧なもので、我々が常識だと無意識に思っているものは儚くて脆弱なものなのだ、と作中の登場人物に言わせたりしてます。確かに、地動説だって提唱された当初は異端扱いされましたし。もっとも、地球は動いていないと考えてしまうという点では天動説は間違ってるかもしれませんが、天が動いてるという意味では天動説は間違ってはいません。天も地も動いてるというのが実際のところですから。そういう意味で、天動説は間違いで地動説が正しい、という決め付けも場合によっては危険でしょう。 そういえば、物事をとても合理的に考えるくせに妙に血液型占いに詳しい友人がいまして、「なんでそんなどうでもいいこと知ってるの?」ってアイヨシが尋ねたら、「女の子との会話に使えるから」という天晴れな解答が返ってきたことがありました(笑)。 閑話休題で、最後の最後で探偵役によって明らかにされる真相にしても、その探偵役自身が言うように、根拠薄弱な荒唐無稽的なものです。一歩間違えば電波系推理と呼ばれても仕方のないものです。それが電波でないのは、メタな読み方ですが作中で伏線が用意されたりして、それが真実であると作者によって決められているからに他なりません。 電波も常識も真実も、その境界線はとても曖昧なものですが、それだけにそれぞれを柔軟に受け入れられる姿勢が大切なのだと思います。本書が家庭”諧謔”探偵小説と謳っている意味もそこにあると思います。それぞれを楽しむ余裕があれば、電波だと思ってたものが真実だったり、逆に真実だと思ってたものが電波だったとしても、現実と上手に付き合えるんじゃないかなぁ、と思ったりします。 まあ、ミステリとかSFとかライトノベルとかについてHPであーだこーだ語ってる時点で、アイヨシだってオタクとなんら変わらんなぁと自覚はありますし、そもそもこの書評だって電波かもしれませんしね(笑)。 もうちょっと本格ミステリ的に分析しますと、本書はクイーンの『九尾の猫』の係累に属するシリアル・キラーものです。通り魔的犯行なだけに消去法による推理が使えず、被害者たちの共通点から犯人像を模索するという”ミッシング・リンク”の論点が浮かび上がってくることになります。本書の場合は犯行現場から犯人の居住地をある程度限定するという客観的な条件からの限定もなされたり、さらに「電波系」怪文書を信用してその意味を模索するという暗号ミステリ的な推理という、複合的な推理によって犯人像を形成していきます。一般的な閉鎖状況下での推理に比べると説得力に乏しく感じられるかもしれませんが、不特定多数の町の人を対象にしなければならない場合の推理としてはとても鮮やかなものだと私は感じました。 てなわけで、ホントに面白いですしオススメなのですが、さらに白状しますと、本書は単行本で2000年に刊行されまして、その後2003年5月に文庫化されました。この文庫化された時期に、ちょうど全身白装束で電磁波汚染の危険を訴えるビックリ集団パナウェーブ研究所の話題がマスコミで一斉に取り上げられました。その電波な主張が本書の電波系文書の内容と奇妙にシンクロ、ってゆーか、事実は小説より奇なり、でして、いやーすごいなぁ、と不謹慎な比較をしつつ本書のないように妙な現実感を覚えまして、それでとても印象深く心に残っています。狙ったわけではないでしょうが、まさに絶妙なタイミングでの文庫化でした(笑)。 |