| 生ける屍の死(DEATH OF THE LIVING DEAD) |
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著者:山口雅也(やまぐち・まさや) 出版:創元推理文庫 初刊:1989 装丁:カバー絵 ルネ・マグリット 定価:980円+税 ISBN4−488−041601−2 |
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[あらすじ] アメリカ各地で、死者が次々に甦るという怪現象が発生した。 いつどこで誰が甦るのかも分からなければ甦らないのかも分からないこの現象に、死者も生者もとまどうばかりだった。 そんな中、ニューイングランドの片田舎にある霊園経営者一族に殺人者の魔手が伸びる。 人を殺しても生ける屍として甦ってくる状況下にあって、なぜ殺人事件が起きるのか? 死者となってしまった主人公のパンク探偵グリンはそのことを隠しつつ、自らの肉体が崩壊するまでに事件の真相を突き止めることができるのか? 「生きるってことは、結局、全部気晴らしなんじゃないか」 (本書p308より) 死者が甦る小説とくれば普通はホラーで、しかもゾンビが出てくる話なんてのはそんなに珍しくもなく、B級スプラッタ小説と思われてしまうかもしれません。 しかし、本書は一度死んだはずの人間が甦るという不条理な小説であるにもかかわらず、ジャンルとして決してホラーに分類されることはありません。ミステリとして語ることしかできない、しかも最高級の”本格”ものです。 死者が甦るという不条理な設定ですが、それが恐怖を扇動するためではなく物語に知的要素・論理性を生み出すために機能していることが本書の大きな特徴です。それはまさにミステリというジャンルと密接に結びついているからこそのものです。 ミステリにおいて、”死”とはとても重大な意味を持ちます。ほとんどのミステリにおいて発生する事件は殺人事件であり、物語は作中の人物の死によって実質的に始まります。死んでしまった経緯を明らかにするのは大抵の場合は生者であり、というのも”死人に口なし”だからです。そうして明らかになる真相おいては、牽強付会の場合もありますが、被害者を生者から死者とするためのもっともな動機があるものです。ありがちな財産目当ての殺人の場合には、財産に対して所有権が死者から生者へと移転する基本原則が背景にあります。 このように、ミステリと死には密接な関係があります。なぜ人を殺すのか? という動機の問題はホワイダニットはほとんどのミステリで最低限のことは語られますし、その裏返しとしての、なぜ人を殺してはいけないのか? という問いかけも特に最近では頻繁に行なわれます。それに、どうやって殺したのか? という方法の問題(ハウダニット)、つまりトリックによる殺人はミステリにおける花形です。また、メタな問題として、そもそもなぜミステリのプロットには殺人事件が多く用いられているのか? というテーマもありますし、他にも色々とあります。 いずれにしても、ミステリにおいて”死”にまつわる様々な諸問題が扱われて論じられます。しかし、”死”そのものについて言及しているミステリとなると、おそらく本書がその嚆矢であり、かつ、究極的なものであるといえるのではないでしょうか。 意外にもその本質が解明されていない死(=生命)の定義といった生物学的なものから、宗教的な意味での生死、社会上の死、葬儀場における死といった様々な死が論じられます。そうした一見すると無駄知識とも思える装飾は実際のところ物語の真実につながる絶妙な伏線として配置されたものであり、そうした緊張感を味わうのも本書の読中・読後の楽しみの一つです。 本書のタイトルである『生ける屍の死』ですが、これはかつていわゆる本格ミステリに対する批判であった”人間が書けてない”、すなわち、物語に論理性が必要とされる結果として人間味のある描写が行なわれていない、というものを意識したメタ的な意味を持っています。つまり、”生ける屍”とはミステリの登場人物のメタファです。社会的な意味での死生観のみならず、文学的な意味での登場人物の死生観すら本書では問われているのです。 そんな生ける屍たちが本書特有の不条理な設定によって死んでも死に切れない、まさしくメタな意味ではない”生ける屍”となり、生者たちの中に混ざって物語を作っていきます。本書の主人公であるグリンは物語開始早々に死んでしまいますが、甦った彼は自らの死因を探るために探偵となり、さらには続いて発生した殺人事件についてもその真相を突き止めようとします。主人公が死んだ物語はこのあとどうなるのだろう(本書p171)、とグリンは嘆きますが、ここでいう主人公とはグリンのことでもあり、本書全体のことでもあり、さらにはミステリというジャンルそのもののことでもあります。山口雅也は、《死》を考察しつつ、本格推理を新しい器に盛り、高らかにその《不死》を宣言したのであるという北村薫の序文はそういう意味なのだと思います。 死者の甦りという不条理設定は、物語にテーマ性をもたらしているだけでなく、作品そのものを本格ミステリの傑作ならしめるものとしても実に巧く機能しています。法・犯罪の客体は人間、すなわち生者であり、当然のことながら死者(生ける屍)を客体とするものではありません。そうした死者たちの行動は警察の捜査の常識から外れたものであり、通常の行動から証拠が発見されるはずなのにそれがなかったり、逆に思わぬものが証拠となったりします。そもそも、死者の心理という前代未聞の動機を考えなければいけないとなれば、もう生者の手には負えません。自らも死者となってしまったグリンこそ探偵役として相応しいのです。そして死者の甦りという設定は不条理なものではありますが、本書においては論理性を排するものではありません。 あと、本書を語るときに上記の特殊設定意外で欠かせないのが、舞台がアメリカというキリスト教が深く浸透している世界であって、しかも時代が1999年以前、つまり終末思想が通奏低音として、2000年以降となっては考えられない程に深く流れていたことです。それこそ不条理なものですが、そうした要素すら本書では真相を支える根拠として論理的に回収されます。 不条理設定は確かに閉塞感に覆われたミステリというジャンルにおいて新たな方法として提示された奇策だとは思いますが、それによって文句のない本格ものが出来上がっています。後の西澤保彦に代表される、奇抜な設定でもルールさえしっかり定められていればミステリとして成立するという「SF本格」の先駆けだといえるでしょう。当サイトではこういうのを「ルールド・ミステリ」と呼んでたり呼んでなかったり(笑)。 最初のSFミステリとして、沿革的には『魔術師を探せ!』(ランドル・ギャレット/ハヤカワ文庫)を始めとするダーシー卿シリーズを挙げることができますが、本格度では本書の方が格段に上です。 あらゆる事柄が因果の流れに組み込まれたあとで、その流れからはみ出そうとするが如くのエピローグ。そこで語られるグリンの想いは、作中人物としてもメタ的な意味でも悲痛なものであり、しかしながら希望に満ちています。無数の死が蔓延したこの物語において論理的にも情緒的にも美しい結末を迎えたことは、本書がまさに傑作であることの証明だと思います。 |