| 暗黒神ダゴン |
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| 原題:DAGON 著者:フレッド・チャペル(Fred Chapell) 訳者:尾之上浩司(おのうえ・こうじ) 出版:創元推理文庫 装丁:カバー造形:松野光洋 カバー撮影・デザイン:矢島孝光 初刊:1968 定価:540円+税 ISBN4−488−52312−9 |
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[あらすじ] 片田舎の土地と屋敷を相続したメソジストの牧師リーランドは、「クトゥルー」「ヨグ・ソトト」といった意味不明の言葉が書かれた手紙や、屋根裏部屋に固定された手錠といったものを見つけ、何故か惹かれるものを感じてしまう。それらのものは父の原因不明の死に何か関係があるのだろうか? そんな彼は、相続した土地の中に不法に住んでいる家族の娘・魚類を思わせる容貌の娘ミナに出会ってしまったことで、魔界へと続く一歩をそうとは知らずに踏み出してしまう……。 本書の邦題ですが、”暗黒神”てのはちと疑問です。 いや、光の神じゃないことは間違いないのですが(笑)、原題はただのDAGONですし、本書の迎える(ある意味)感動的な結末を考えると、”暗黒神”というのは少し不適切だと思います。 本書は、H・P・ラヴクラフトが生み出した壮大にして独自の神話体系である『クトゥルー神話』(Wikipedia→クトゥルー神話)をベースにして書かれた、傑作恐怖小説です。 『幽霊の正体見たり枯れ尾花』という句がありますが、普通の恐怖小説は、正体不明の現象に恐怖を覚えつつも、その正体が明らかになってしまえばどうということはなくなってしまいます。つまり、恐怖は”知”によって解消することが可能なのです。したがって、恐怖小説は完全に理詰めであってはならず、どこか曖昧な部分を残しておかなければなりません。 『クトゥルー神話』も、そもそもの「クトゥルー」という言葉自体が人間には本来発音不能なものをあえて言葉にしたというもので、基本的に理解不能な存在・概念なのですが、そうした形容し難い大いなる存在を恐怖小説の背景とすることで、それまでの伝統的な恐怖小説とは異なる新しい恐怖小説、コズミック・ホラーとも言われる独特の恐怖を描き出すことに成功します。 通常であれば、正確な知識によって恐怖は克服されます。しかし、「クトゥルー神話」の場合、「クトゥルー」とか「ヨグ・ソトト」とか怪しげな言葉を理解すればするほど、心の平穏は失われ、しかし好奇心の渇望を抑えきれずに、はたまた何らかの欲求によってか、よせばいいのにその探求をやめることができず、その探求者は半ば自らの意志で絶望の淵へと追いやられていきます。一度知ってしまうと簡単には忘れられませんし、中途半端な状態では我慢できないのは誰しも共感できるとは思いますが、知れば知るほどダメになっていくのです。自らの抱える心の闇と、超自然的な存在とが結びついてしまったとき、その媒介となってしまった人間がどのような運命を辿ってしまうのか? 宗教的な恐怖もここにはあると思います。 そんなクトゥルー神話を題材にして書かれた本書ですが、本書の場合、そうした超自然的な存在に対する恐怖というのもありますが、そこに至るまでの主人公であるリーランドや魚娘ミナたちの心のありようを含めたグロテスクなサディスティックでマゾヒスティックな描写の方が怖くて、それこそが巻末の著者インタビューでも述べられているとおりの著者の狙いであったりします。コズミック(宇宙的)と称される神話的体系の壮大なホラー小説であるはずなのに、普通に怖いのです。それが不思議だけど凄いです。 主人公の牧師リーランドは、H・P・ラヴクラフトその人がモデルとなっているらしいです。気位が高いインテリだけど生活適応力がなくて、父の死を巡る忌まわしい秘密とそれへの拘りがあって、魅力的な女性との結婚と突然の離婚、といったラヴクラフトの人生が、巧みに主人公のそれとしてアレンジされています。こうした点にも、「クトゥルー神話」に対する著者の傾倒振りを窺い知ることができます。 リーランドがキリスト教の牧師、しかも会派がメソジスト(=プロテスタント教派で、規律正しい生活習慣[メソッド]とその報告[教会ミーティング]に重きを置く会派)だというのも、本書が恐怖小説として成功している一因だと思います。”神”というのは超自然的な存在でしょうから、変にファンタジックな描写をしないでも自然に他のファンタジックな存在を肯定させることができます。 不安定な自我の確立を宗教に求めて牧師への道を選び、俗世からの解脱を図ったのに、その努力が認められることで逆に名声を高めてしまい、清貧を理想としていたのに皮肉にも莫大な遺産を手にしてしまい、リーランドの自我は分裂的な状況に追いやられます。そんな状況下で夜な夜な繰り返す悪夢と、理想的な妻に対して抱いてはいけない衝動的な殺意とか、そうしたものが背徳感と相俟って彼を苦しめまるわけですが、キリスト教信者であればこそ苦しみはより深まるというものです。さらに、過ちを犯してからリーランドが辿る転落の過程において行なわれる意味不明ながらも儀式めいた一連の行動をリーランドが許容できてしまったのは、皮肉にも彼がメソジストだったからだとも考えられます。 とにかく、本書は「クトゥルー神話」体系につらなる幾多の物語の中でも傑作の呼び声の高い名作ですから、そうしたものに少しでも興味のある方はぜひとも読んでおくべきだと思います。 ……とか言いながら、実はアイヨシはそれほどクトゥルーとかに詳しいわけではないです。だって、あんまり詳しく知っちゃって本書のリーランドのようになっちゃったら嫌ですからね(笑)。 |