イェマドの後継者

著者:麻生俊平(あそう・しゅんぺい)
出版:富士見ファンタジア文庫
初刊:1997
装丁:イラスト 弘司
定価:660円+税
ISBN4−8291−2764−3


[あらすじ]
 裁きの力、世界を終わらせることのできる力を持った二人のザンヤルマの剣士。
 その力を使い、今の世界を作っている人間すべてを抹殺することで終わらせて、新しい理想の世界を作ることを主張する左波木に対し、そんな考え方は間違っていると思いながらも、遼は反論することができない。
 微妙な緊張感を保ちながら、それなりに充実した日常を過ごしながら、遼はついにザンヤルマの真実を知るために、ザンヤルマの剣の中にいる、世界を滅ぼした剣士と接触することを決意する。そのことが左波木を止めることにつながると信じて…。
 『ザンヤルマの剣士』ここに堂々の完結!



今日からあなたの幸せな日々が始まりますように――。
(作者の「あとがき」p504より)


 最終巻はついに500ページを超えました(「あとがき」込みで504ページ)。当時のライトノベルでは常識外の厚さです。流れを無視して二分冊するという策もあったと思うのですが、それをしなかったところに、物語をきちんと終わらせようという作者を始めとする製作者側のプライドが感じられて好印象です。

 ”ザンヤルマ”とは、この世が終わる時、これまでに生きたすべての人間を一堂に集めそれを裁く、人類最後の法廷のことです。まるで”最後の審判”ですが、具体的にはどうなのかと言えば、要するに人類補完計画です(コラコラ)。守護神(=ATフィールド)によって自分だけの世界を作っているイェマド人たちに対して、守護神を無効化することで、その者に他者の存在を感得させて、すべての人間の心に秘められた真実を引き出すことのできる力を持った剣、それがザンヤルマの剣です。どちらもキリスト教的なものがモチーフになっているのも興味深いところです。

 こんなこと言うと、じゃあどっちかがパクったのか、と思われてはいけないので補足しておきますが、『ザンヤルマの剣士』シリーズは1993年から1997年までのシリーズです。対して、新世紀エヴァンゲリオンは、テレビ版は1995年10月3日〜1996年3月27日まで、その後1997年に映画版として最終話が発表されています。双方の発表時期がこれだけ接近している状態では、どちらもパクリようがありません。つまり、期せずして同じような問題意識を持って発表されていることになります。
 アイデアのハーモニーは創作では時々起こる現象ではありますが、この場合には、当時の社会の雰囲気にそうした物語を書かせる何か――自分だけ良ければそれで良しという利己的な考え方の蔓延――隣人のことを全く知らないとか、人間関係の希薄さとか、そういうのが共通基盤としてあったのかなぁ、と想像します。こんなこと言いながらも、仮にも当時を生きていた人間として、そんな自覚はそんなにありませんでしたが、それは私が鈍かったからでしょうか(笑)。実感(あるいは記憶)が伴ってないので、何ともまとめようがないのです(トホホ)。いずれにしても、こういうことはできるだけリアルタイムに記録しておかなきゃ駄目ですね。

 閑話休題ですが、つまり、ザンヤルマの剣とは、物理的な大破壊を生じさせて、文字通り世界を破滅させるような道具ではなかったわけですが、にもかかわらず、イェマドは滅亡してしまいます。それは、他者の心の存在に耐え切れなかったがための異常なストレスによって、その大半が死亡してしまったからです。反発、反感、嫌悪、否定、拒否、拒絶の奔流の増幅による精神的な死滅だったのです。
 ザンヤルマの剣士の使命とは、自らの精神を媒介に他者と他者との精神をつなぎ合わせることだったのですが、それによって生じた狂気の波は、ザンヤルマの剣士にも耐え切れない重圧となって襲い掛かり、それによって初代ザンヤルマの剣士は死亡してしまいました。人工的に作られた二代目のザンヤルマの剣士は、狂気に呑み込まれることこそありませんでしたが、より大規模な悲劇を招きます。絶望した二代目は、世界が再生された後に、再び同じ悲劇を繰り返さないために、自らの心をザンヤルマの剣に擬似人格として残すことで後世に伝えます。その擬似人格とリンクすることで、遼はザンヤルマの真実を知ることができました。
 『モノクロームの残映』で、イェマドにはコミュニケーションのための道具がない、と丈太郎が指摘していましたが、そのことがザンヤルマの伏線になっていたのは見事だと思いまし、これまでのザンヤルマの剣の機能として考えられていたものの理由がすべて説明がつきましたし、ザンヤルマの真相自体はとても美しい形で収束したと思います。センス・オブ・ワンダーと言っても過言ではないと思います。

 対立していたはずの裏次郎と水緒美ですが、遼が裏次郎にとどめを刺そうとしたときに裏次郎を助けてしまうのは何だかなぁと思いましたが、そのときに明らかになった事実はイェマドの崩壊とザンヤルマの真実と併せて考えると面白いです。
 すべてのイェマド人が持っていた”守護神”は、その持主の健康状態を完全に維持しますが、その結果、母体から胎児をも排除してしまうのです。つまり、守護神に依存して自分の中の世界に浸りきっていたイェマドの世界では、そもそも他人との接触がないので恋愛関係も生じず、仮にそうした関係に発展したとしても子供を産むことができない状態にあったことが分かります。守護神が老化を止めるとしても、新しい世代がまったく出てこない社会などいつかは滅びてしまうでしょう。ザンヤルマ計画の背景にこうした危機感があった、とは作中で明示されてはいませんが、その理由にはなると思います。
 で、ザンヤルマによるイェマド崩壊後、裏次郎と水緒美は一時期夫婦同然の生活をしていたわけですが、守護神の機能によって子供を持てないことに気付きます。そこで二人は、互いの守護神を相互干渉させることで一時的に機能不全させることにします。そうすることで産まれた子供が丈太郎なのですが、これは図らずもザンヤルマがまさに成功した皮肉な一例であるといえるでしょう。シリーズ全体を通しての見事な構成だと思います。
 
 にもかかわらず、スッキリしない(と私が感じている)のは何故でしょう?
 それは、ザンヤルマの真実をぶつける相手が違ったからだと思います。
 佐波木くんがザンヤルマと無関係だとは言いません。しかし、ザンヤルマとは何かを探求し、それによって今の世界を滅亡させようとしていたのは、他でもない裏次郎だったはずです。だからこそ、その真実や、それは避け得るものなのか、あるいは立ち向かわなければならないものなのか、といった話は、やはり第一に裏次郎に対してぶつけて欲しかったと思わずにはいられません。

 肝心の佐波木くんとの最終決戦ですが、そこまでのモチベーションが低いのも問題です。佐波木くんは自分の両親を殺すことで遼との対決を誘引しました。しかし、これまでも遼は、自分の両親を殺した相手(桐原朝子とか)と闘い、しかし殺さずに許してきました。そんな遼を今更本気にさせるのには、その程度では物足りないと思います。やはり、佐波木くんは万里絵を殺すべきだったと思います。別に重症でもよいのですが、万里絵を傷つけられても、遼は佐波木くんを許すことができるのか、となればもうちょっと盛り上がったと思うのですが…(←悪趣味なのは自覚してますが)。あるいは、もっと説得力のある、それっぽい理想世界の姿を提示できてたら良かったと思うのですが…。

 結末自体はどうでしょう?
 個人的にはそんなに嫌いじゃありません。毎回毎回なんとも言えない後味の悪さを楽しんできただけに、最終巻だからって綺麗に終わられちゃってたら、やはりそれはザンヤルマじゃないように思います。だからこそ、主人公の生死不明というラストも、とてもザンヤルマらしいと思うのです。剣を捨てるにしても、傷が治ってからにすればいいじゃんとか、そういうことを思っちゃいけません(笑)。
 剣を捨てるという決断は、予想通りではあるのですが、考えどころではあります。捨てるというのも、遼自身が安易な決断をしたということになりはしないでしょうか。世界を変えるために特別な人が頑張るだけでは駄目だとしても、でも、頑張った人は特別になってしまうのではないでしょうか。これはジレンマです。
 今の富士見ファンタジアだったら、もっとLOVE寄せな終わり方を要求されるかもしれませんが(笑)、そっちの方向は私の趣味ではないので良しとしましょう。

 そんなわけで、とても面白いシリーズでしたが、最後の方は必ずしも大満足とはいえない形で物語は幕を閉じました。とはいえ、その面白さが水準以上だったことは間違いないので、そこは強調しておきます。
 セカイ系的枠組みの物語でありながら、家族や学校、宗教や企業や地方政治という中間段階をすっ飛ばさずに、さまざまな問題を主人公と通して読者に訴えかけ、安易な結論に逃げずに登場人物たちの悩み苦しむ心理描写を克明に描き、内向的な主人公がわずかな光明を見出し、臆病な彼が懸命に闘う姿は、やはり感動的でした。最後で明らかになるセカイ=イェマドの滅亡の真実は、SF小説を髣髴とさせるスケールの大きさと衝撃がありました。
 いろいろ文句も言ってきましたが、でも、間違いなく一大傑作シリーズだったと思います。



●登場した”遺産”

筐体
 複写型可変多用途モジュール実用試作品”ジェネラル(GT)”。
 現代人が”工房”を利用しつつ、イェマドの遺産を研究し発明した、量産可能な遺産。遺産の持つ能力をコピーできる。試作品一号は一つの遺産の能力しか維持できない(他の遺産の能力を複写しようとすると、上書きしてしまい、以前の遺産の能力は失われる)が、二号(GU)は複数の遺産の能力をコピーできる。
 試作品一号を持って日本に来たジェネラル(アイテム名でもあり、アイテム・オーナーのコードネームでもある。本名はヒルデガルド・ノイラート)は、佐波木の襲撃を受けた際に彼の持っていた”ザンヤルマの剣”の能力を転写することで三人目のザンヤルマの剣士となった。

工房
 光と闇の奇妙なオブジェ。それを20本ほどのマニュピレータが取り囲んでいる以外は、人間からも時間からも取り残されたような空間。
 イェマドの遺産を作ることができる。ただし、現代人はいまだイェマドの文明についての知識が十分ではないので、オリジナルの遺産の能力を転写することを必要とする、不完全なアイテムしかFINALは作成することができなかった。
 遺産を量産するとともに、『放課後の剣士』所収の短編「いくあてのない子守り歌」に出てきた擬似生命体育成セットを応用し、使用者も量産することで、FINALは遺産の有効活用を図った。
 また、イェマド滅亡後に生まれた丈太郎が使用している遺産、守護神や手袋、転送装置といったものも、やはり(別の)工房によって作られたものである。しかし、この工房は現在はない。その理由は不明だが、裏次郎が持ち去ったか、あるいは水緒美が破壊したのかもしれない。

ザンヤルマの剣
 あらゆる障害を突破してコミュニケートするための機能が備わっている。”守護神”による意識のバリアでさえ、ザンヤルマの剣の前には無効である。危険察知、センサー機能、攻撃・防御のアドバイザー機能などは、この能力の応用である。
 拒絶と黙殺の闇の中で、世界中の人々のすべての心をつなぎ合わせるために作られた遺産。
 初代の剣士はコミュニケートの媒介になった際の重圧に耐え切れずに死んだ。
 二人目のザンヤルマの剣士はその重圧に耐えられるように人工的に作られたが、自らの引き起こした悲劇に耐え切れず、剣の守護神の機能を使って自殺することで、剣の中に自らの擬似人格を保存し、次のザンヤルマの剣士にザンヤルマの真実を伝えて悲劇を繰り返させないことを決意する。
 遼の持っている剣(赤い剣)は二人目の剣で、遼はその擬似人格と接触することでザンヤルマのことを知ることができた。剣を畳んだ際に陥る幽体離脱状態は、遼が無意識のうちにこの擬似人格との接触を拒んでいたために起きていたものであった。
 佐波木の持っている剣(青い剣)は初代のザンヤルマの剣士のものであり、前の持主の擬似人格が保存されていなかったために、ザンヤルマについて知ることができなかったし、剣を畳んでも幽体離脱状態になることはなかった。


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