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◆「ザンヤルマの剣士」シリーズ◆

NO. 書名 刊行 ひとくちメモ
ザンヤルマの剣士 1993 すべてはここから始まった。
ノーブルグレイの幻影 1994 才能と周囲の期待によって孤立する少年の話。
オーキスの救世主 1994 本書出版は1994年。地下鉄サリン事件は1995年。
フェニックスの微笑 1995 幼児期の虐待と多重人格の問題。
フェアリースノウの狩人 1995 キレる少年のデフォルメともいうべき事件。
放課後の剣士 1995 ここで短編集かよ(笑)。
イリーガルの孤影 1996 意外な展開が。
モノクロームの残映 1997 ひとつの大きな区切りを迎えます。
ファイナルの密使 1997 いよいよ最終編に突入!
10 イェマドの後継者 1997 そして問題と感動のフィナーレへ…。


●総論…『ザンヤルマの剣士』の特徴と魅力、そして問題点

 『ザンヤルマの剣士』シリーズは一部でカルト的な人気を誇っている作品であり、私の心にも深く残っています。
 その要因として、次の3つを挙げることができると考えます。

(1)暗い
(2)社会派
(3)最後で失敗しちゃった

(1)暗い…キャラもテーマも暗かった。

 まず、主人公の暗さがあると思います。こんな内気で内向的で(一見)弱い主人公というのは、当時はホントに珍しかったですし、今でも多分少数派でしょう(笑)。
 雑誌『QuickJapan』vol.54の「ライトノベル大特集」内の「冲方丁×乙一のライトノベル必読書一〇〇冊」p113において、乙一がザンヤルマの剣士について、
 「その当時、『暗いものを書いてもいい』という気持ちにさせてくれたのが、〈ファンタジア〉から出ていた麻生俊平先生の『ザンヤルマの剣士』だったんです。『ザンヤルマの剣士』は碇シンジくんのような内にこもりやすいキャラが主人公でした。この作品があったから、僕も気兼ねなく暗いものを書くことができました」
 とコメントしています。今となっては、暗いライトノベルなんて珍しくもなんともないですけどね(笑)。
 ただ、普通はやっぱり万里絵とか、あるいは神田川くんみたいな性格のキャラが主人公となるであろうところを、そうじゃなくしたのは、やはり斬新だったと思います。
 主人公以外の登場人物も、ピリピリした緊張感を纏ったのがほとんどで、ちっとも心が休まりませんでした。メインキャラでは唯一余裕の感じられていた水緒美ですら、最後はあんな感じだったし…(苦笑)。
 また、富士見ファンタジア文庫といえばレーベル名からもファンタジー的な作品が想像されると思いますが、そんな中にあって、『ザンヤルマの剣士』は現代社会を舞台に、宗教とか幼児虐待とか企業倫理とか、そうした社会問題に主人公を真っ向から相対させました。それでいて、安易な解決でオチをつけるようなことはしません。いつもいつも後味の悪いラストを覚悟する必要がありました。
 でも、毎回重厚な読み応えを満喫することができました。

(2)社会派…ライトノベルと社会派について。

 また、社会派というのもライトノベルでは珍しいです。
 特筆すべきは、『オーキスの救世主』です。これを読んでからしばらくしてオウム真理教事件がクローズアップされたときには戦慄を覚えました。そのインパクトが一部で伝説として名を残している要因であることは間違いないと思います。この感動はタイムリーに読んでいた方にしか共有してもらえないかもしれませんが…。これだけ現実の問題を生々しく扱っているライトノベルというのは凄いです。
 『ライトノベル☆めった斬り!』(p15)では、ライトノベルの特徴として、主題に社会的なテーマ・メッセージ性が欠如しているということがポイントとして挙げられています。それくらい、社会派ライトノベルというのは珍しいのです。一体何故でしょう? 2次元に生きてる人間にとって、3次元の問題なんか持ち込まれても邪魔で鬱なだけということでしょうか?(コラコラ)
 社会問題に興味があるなら小説じゃなくて違うものを読め、と言われればそれまでですし、説教臭い物語もうんざりですが、だからと言って、そういうテーマを創作のネタとして完全に放棄するのも勿体無いように思いますから、社会派ライトノベルも少しくらいあっても良いと思います。

 ライトノベルにおける物語のパターンとして、”セカイ系”という流れが指摘されることがあります。セカイ系とは「2003年に流行した新語。個人の問題(キミとボクの問題)が中間段階(家庭とか学校とか会社とか社会とか)をすっ飛ばして世界の問題と直結するような物語」(『ライトノベル☆めった斬り!』p207)だとすれば、『ザンヤルマの剣士』は大枠ではセカイ系の物語だといえます。シリーズの冒頭で、世界を滅ぼせる剣、”ザンヤルマの剣”をポンと手渡されるわけですから。
 しかし、『ザンヤルマの剣士』では、中間段階をすっ飛ばすどころか徹底的に追求し、登場人物は悩み苦しみ、痛い目にあいます。そういう意味では、『ザンヤルマの剣士』は社会派であり、セカイ系の作品と理解することは適切ではないでしょう。

 ちなみに、そもそもの”社会派”という言葉ですが、一般に、ミステリ小説について論じる場合に、本格(あるいは新本格)としては相応しくないミステリを指して「あれは本格じゃない、社会派だ」という風に、本格(あるいは新本格)の反対語として使用されることがあります。そのような理解が一般的でしょうし、私もそのような意味で使うことが多いです。本格→社会派→新本格というひとつのムーブメントを表象したものだといえるでしょう。
 しかし、社会派本格ミステリというものが存在し得るところからも明白なように、”流れ”としてではなく、言葉の意味そのものを厳密に考えると、その理解は間違っています。
 例えば、ミステリとハードボイルドは仲が悪いです。ハードボイルドはミステリのことを、一回解けば再読不要のパズル、人間が書けてないと批判しますが、ミステリはハードボイルドのことを、非論理的、臭くて読むに耐えないと批判します(こんなこと書いて大丈夫かオレ…)。
 そんなハードボイルドですが、対社会派となるとミステリと共同戦線を張ります。では、社会派と非社会派の境界線は何なのか? それは、ためになるかならないかの違いです。
 ミステリもハードボイルドも、読んでるときの楽しさ・カタルシスを大切にします。読後のことなんて本来的にはどうでも良いのです。
 対して、社会派はそれじゃ駄目です。読後に何か社会に還元できるものが得られなければ意味がない、というのが社会派です。小説としてつまらなくても、社会的に意義のある内容なら本来的には良いのです。
 こう考えると、ライトノベルにおいて社会派が永遠の少数派となるのも当然のことだと思います。なぜなら、読んでるときに楽しくなきゃ駄目な小説、って、まさにライトノベルのことでしょうし、『ザンヤルマの剣士』は、そんな少数派として堂々と存在している作品だといえるでしょう。

(3)最後で失敗しちゃった。

 そして、個人的に最大の要因だと思っているのですが、そんな傑作シリーズだったにもかかわらず、終わらせ方を間違えちゃったことにあると思います(←言っちゃった)。ですから、せっかく面白かったのに、あれは無いよな〜、という哀惜の念が綿々と語り継がれた結果、”伝説”となったのではないかと思います(笑)。
 そんなわけで、個人的には偉大なる失敗作(だとしても、標準レベルより遥かに上です)だと思っているのですが、それだけにとてもとても惜しまれる、愛着のあるシリーズなのです。
 で、具体的にどう失敗しちゃったかについては、シリーズ個々の作品について分析・書評していく過程で明らかにしていきたいと考えましたので、よろしければそちらをご覧下さい。



オマケ駄文→「エルリック・サーガ」と「ザンヤルマの剣士」の比較

オマケの表→「ザンヤルマの剣士」登場人物一覧表



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