| 逆 転 |
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著者:伊佐千尋(いさ・ちひろ) 出版:岩波現代文庫 初刊:1977 定価:1200円+税 ISBN4−00−603045−2 |
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2009年5月から、一般市民が裁判に参加して殺人や傷害などの事件を裁く”裁判員制度”がスタートします。 それまで、日本の裁判は職業裁判官と弁護士・検察官といった人々のみで行われてきまして、一般市民にとって裁判とは、出来れば一生関わりたくないものだというイメージはあると思います。しかし、日本国憲法の標榜する民主主義の考えからすれば、極めて重要な国家作用である司法作用において、一般市民の関与がほとんどないままに行われてきた現行の裁判のあり方は異質なものであって、そうした意味で裁判員制度の導入は遅きに過ぎるということが言えるでしょう。 もっとも、現在の法システムでも市民の裁判手続きへの関与が全くなされていないわけではありません。 ひとつには、検察審査会という制度があります。くじで選ばれた11名の検察審査会員で構成される検察審査会は、利害関係人の申立てまたは職権で、不起訴処分とされた事件についてその当否を判断することで、公訴権の実行に関して民意を反映させる制度です。ただ、事後に検察官の不起訴処分を点検するだけであり、かつ、審査結果も検察官を拘束する法的効力を与えられているものではないために、裁判への市民参加という点ではかなり後退している制度ではありますが、それでも民意を反映させるために意義のある制度だとされています。ちなみに、この制度を題材に扱っている小説として『検察審査会の午後』(佐野洋/新潮文庫)があります。 よく指摘されていることですが、日本でも戦前の1928年から1943年までの15年間、陪審制による裁判が行われていました。戦局の悪化を理由・背景に陪審法は停止されたまま今日に至りましたが、そのため、日本国憲法下では陪審制による裁判は行われてこなかった、ということが良く言われています。しかし、厳密に言うとこれは間違いです。そのことを示しているのが本書『逆転』です。 周知のとおり、戦後の沖縄は1972年までアメリカの統治下にありました。そんな中で、1964年、沖縄の普天間で米兵殺傷事件が発生し、容疑者として沖縄の青年4人が逮捕されて起訴されました。アメリカ兵が沖縄住民を殺してもたいした処罰を受けず不問に処されることもあった時代に、このようなケースではどのように判断されるのか? 重罪に処されるのではないか? 本書は、この事件の裁判のために陪審員として参加し、本書を執筆した伊礼(”伊佐千尋”というのはペンネームらしい)の視点から語られます。 事件自体には日本の刑法が適用されますが、その手続きはアメリカの法律、つまり陪審制で行われています。陪審制と一言で言ってもいろいろありますが、アメリカの陪審制は起訴するか否かを判断する大陪審と、審判において事実の存否を判断する小陪審の双方を保障した制度となっています。 そうした背景の下で裁判が行われ、陪審員の評決のための評議が行われるのですが、これがとても面白いです。陪審員12人の9人がアメリカ人で、当然ながら評議は被告人にとって不利な展開、つまり沖縄人を有罪にすべき、というペースで進んでいきます。これに対して少数派である沖縄人の伊礼は、一方的な捜査手法による証言・証拠の信用性について疑問を呈し、何とかして沖縄人にとって有利な判決に導こうと抵抗します。そうすると、心情としては被告人を有罪にしたがっていた多数派も、評議が全員一致でないといけないという事情はあるでしょうが、だんだんと考えを変えてくるのが面白いところで、殺傷事件のうち傷害については、喧嘩両成敗の片手落ちという理論もあって、比較的容易に無罪という結果に落ち着きます。 問題はアメリカ兵の一人が死亡している事実についてどうするかです。傷害したとしても、殺害したことまでの直接的な証拠はないという点では共通認識を有することに伊礼は成功しますが、しかし、状況証拠や共謀のロジックが立ちはだかり、評議は難航します。結局、伊礼は評議の進行をたくみにコントロールすることで、最初は殺人の罪に問われていた被告人について、傷害について有罪(つまり、殺人罪については無罪)という結論に持っていくことに成功します。つまり”逆転”です。 評議自体は、複雑かつ交錯したものとなっていますが、落ち着いて考えてみると極めて当然なものです。身も蓋もない言い方をすれば、殴った証拠はあっても殺した証拠はない以上、当然の結果といえるでしょう。主人公である伊礼はこの事件をきっかけに陪審制の素晴らしさというものを実感します。 しかし、この裁判はこれだけでは終わりません。アメリカの陪審制は、起訴の決定と事実判断については関与できますが、量刑判断は裁判官の判断に委ねられ、陪審員は関与することができません。ここに”落とし穴”がありました。傷害罪としては異例の、懲役3年の実刑(執行猶予なし、という意味です)が科されたのです。つまり事実上”再逆転”がなされたのです。本書がただの陪審制啓蒙作品で終わっていないところがノンフィクションならではだと思います。 本書は、実際に陪審員として裁判に関与した人間の視点から語られます。そのため、ノンフィクションでありながら伊礼の視点や考えが色濃く出てしまっていて、小説っぽい印象を読者に持たれてしまうのは損だと思います。しかし、そうした手法を採用したのも、事件についての公式ファイルから訴訟記録が抜けていたり、こともあろうに判決書が紛失していたり、法廷リポーターの口述記録が損傷のため難聴部分が多かったという、いかにもありがちな事情を加味すると仕方のないことだと思います。 また、本書では裁判とは直接関係のない、伊礼が経営している会社がアメリカ民政府の不当な介入によって苦悩に陥るという事情も併せて描かれています。このことは、陪審員としての活動をしながら一市民としての生活を維持することの困難を示すとともにアメリカ統治下の沖縄の雰囲気を伝え後世に残す役割も担っていますし、当時の社会背景から、裁判官が事件を”再逆転”させた事情のようなものを推察することもできます。 ただ、”再逆転”の事情について伊礼は、みせしめじゃないか、と言っていますが、必ずしもそうとは言い切れないと思うのが困ったところでもあります。 平成2年11月20日最高裁の判例に、被告人が被害者に暴行を加えて意識不明の重症を与えた上でこれを離れた場所に運搬放置し、その後、第三者が被害者の頭部を殴打したことによって死亡したという事例があります。 この事例において判例は、第三者の暴行が被害者の死期を早めたものであったとしても被告人の暴行と結果との間には因果関係があるとして、この被告人に殺人罪を適用するという判断を示したものがあります。第三者の、被害者の頭部を殴打した行為というのも犯罪行為であることは間違いないと思うのですが、この場合の被告人に殺人罪を適用すると、そうした第三者にはどのような罪を適用することになるのでしょうか? 謎です。 このように、見せしめとは関係ないケースで、暴行傷害と死亡との間に第三者の行為が介在していると認定されているにもかかわらず殺人罪が認定されている事例があるのはなぜでしょうか? 正直、理解に苦しむのですが、検察官の主張する行為の悪質性と死亡という結果の重大性を裁判官が一般常識とは異なる感覚で結び付けてしまった例と言えるのではないでしょうか? ま、職業裁判官による裁判でもこんなルーズな事例があるのですから、裁判員制度によって一般市民が裁判に参加することになるからといって、そんなにびびることはない、ってことは言えるのかもしれませんね(笑)。 ちなみに間違えやすいのですが、いわゆる陪審制と日本の裁判員制度というのは似て非なるものです。どちらも市民による裁判への参加という点は共通ですが、陪審制は小陪審・大陪審といった種類がありますが、起訴不起訴の当否や事実の判断によって有罪・無罪の判断をすることにはなりますが、量刑判断は陪審員の仕事ではなく裁判官が判断することになります。『逆転』において再逆転が生じてしまった理由がここにあります。対して、裁判員制度は、裁判官と裁判員とが協力してひとつの裁判について起訴・不起訴の判断や有罪・無罪のみならず、量刑判断まで行ないます。裁判員は、自分の任せられた事件についてはまさに裁判官とほとんど同じ仕事をすることになるのです(もっとも、判決文を書くのは裁判官の仕事ですが)。 ただし、陪審制では判断には裁判官が一切関与せず、陪審員の評議に独立性が与えられていますが、裁判員制度ではどうしても裁判官が中心的な役割を担うことになるでしょうから、場合によっては裁判官の判断を市民が考えなしにお墨付きを与えてしまうだけの制度になってしまう危険があります。そうなってしまっては折角の市民参加の裁判制度も台無しです。 やたらと裁判官に喧嘩を売れば良いという意味ではないですが、自分の納得いく結論が裁判で出るように努力しようとすることは大事だと思います。被告人の一生を左右する判断を迫られるわけで、あまり適当にやってしまうと目覚めの悪い思いをすることになるでしょう。 裁判員制度がどのようなものがについて、分かりやすく説明している媒体は専門書に限らずテレビドラマなどたくさんありますが、私的にはマンガ『裁いてみましょ。』(きら/集英社クイーンズコミックス)を単純に読み物として面白いという意味も含めてオススメしておきます。 長々と書いてきましたが、本書は市民の裁判への参加という難しいけど大事な問題を考える上での一助になり得るものだと思います。 <参考>裁判員制度について(裁判所のホームページ) |