悩み多き哲学者の災難
原題:The Spinning Man
著者:ジョージ・ハラ(George Harrar)
訳者:対馬妙(つしま・たえ)
出版:ハヤカワ文庫
装丁:イラスト 村田篤司
初刊:2003
定価:940円+税
ISBN4−15−04107−2

[あらすじ]
 大学で哲学を教えているエヴァン・バーチ教授は、子どもとの買い物帰りに突然警察署へ連行された。女子高生が失踪したとされる事件で、彼女のアルバイト先の駐車場でエヴァンの車が目撃されていたからであった。警察官に事情を聞かれたエヴァンは哲学の教授らしく深遠な返答をするが、彼に不利な物証が次々と見つかり、警察は彼への容疑を深めていく……。



「パラドックスは、世界について考えるための言語の限界を明らかにするものだ」(本書p108より)


 ……う〜ん。面白いことは面白いのですが、その面白さを説明するのがとても難しい本です。

 「哲学者を見舞った災難を、皮肉とユーモアで描いた思索的サスペンス」と背表紙のあらすじにはあったので、きっと、土屋賢二みたいにコミカルで変な哲学教授が、やってもいない少女誘拐の容疑をかけられて、素直にやってないって言えばいいものの、哲学教授ならではの変な拘りを警察官とのやりとりで見せてしまったために疑惑を深められてしまい、それを払拭するために奔走して、最後には哲学者ならではの推理を披露して事件を解決する、という話(←これはこれで面白そう。誰か書いてくれないかなぁ…)を想像しました。
 最初のうちはエヴァンも事件への関与を認めていないので、やはり冤罪なのかなと思ってました。ところが、エヴァンにとって不利な物証が次々と出てきて、エヴァンの妻自身も彼の性格としてそういうことを仕出かしてもおかしくない部分があるということを言い出し始めます。そこでエヴァンの発言や思考の記述を読み直してみますと、哲学者らしい返答によって事件への関与を否定していますが、自分が犯人ではないと積極的に言ってる箇所はひとつもないことに気付かされます。とするとむしろ逆に彼が犯人であっても全くおかしくないことになって、読んでて緊張感がぐわっと高まってきました。
 従いまして、アイヨシが本書の読み方を間違えたのかもしれませんが、”皮肉”はあっても”ユーモア”は全く感じられませんでした。とにかく微妙な緊張感が、最初から最後まで一貫してあります。
 もしやってないんだったら、高名な哲学者ヴィトゲンシュタインからの引用を多用する教授の独白などは、哲学教授ならではの思索的発言ということで理解の対象となりますが、もし教授が犯人であるならば、それは犯罪者の思考であり、それを理解してしまうということは読者自身が犯罪者の思考を理解してしまったということになってしまいます。ですから、読者としては一体どっちなのかハッキリして欲しいのですが、そんな緊張感は高まっていく一方で、最後にはどっちであっても不思議じゃないくらいになります。ここまできたらハッキリさせて終わらせちゃダメだろってとこまでいっちゃいますが、それだと物語として成立しないんじゃないかと思って不安になりまして、一体どうやって終わらせるんだろうと思ってたら何と! 白黒ハッキリさせることなく、かといって灰色でもなく、それでいてひとつの決着をつけて物語を閉じるという、信じられない離れ業をやってのけるのです! これは凄い! 凄すぎます!!

 ……力説すればするほど、自分の読み方が特殊なものに思えてならないような(トホホ)。
 ジャンルとしては、狭義のミステリには当りませんが、哲学的思索はそれなりに論理的ですので、論理の面白さを楽しめるという意味ではミステリ・ファンにも推奨できます。しかし、オーソドックスなミステリが好きな人が読むと激怒されるおそれもあるので、オススメするのが難しい本です。

 哲学者たちの名言・珍言も引用・紹介されますので、そうした知的な楽しみもあります。特にヴィトゲンシュタインの影響は顕著で、本書が一人称で書かれているのも、「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」等の、ヴィトゲンシュタインの独我論に沿ったものでしょうし、本書の印象的な物語の閉じ方も、「哲学的なことがらについて書かれてきた命題や問いのほとんどは、誤っているのではなく、ナンセンスなのである。それゆえ、この種の問いに答えを与えることなどおよそ不可能であり、われわれはただそれがナンセンスであることしか確かめることができない」という彼の哲学を実践したものだと考えられます、何て言っちゃうと深読みがすぎるかもしれませんが(笑)。(何れも『論理哲学論考』より引用)
 とは言え、お勉強チックな小説だと思われてしまうのも困りまして、要は、静かで地味だけど恐ろしい心理サスペンスの傑作なのです。

 ちょっといろんなことを喋りすぎてしまったかもしれませんが、それというのも本書の面白さが類を見ないもので、適切な言葉が思い浮かばないからです。とにかく、興味を持って頂けたらそれだけで幸いです。

「語りえぬものについては、沈黙せねばならない。」
『論理哲学論考』より)

『論理哲学論考』
原題:TRACTATUS LOGICO-PHILOSOPHICUS
著者:ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン
    (Ludwig Wittgenstein)
訳者:矢野茂樹(やの・しげき)
出版:岩波文庫
初刊:1918
定価:700円+税
ISBN:4−00−336891−6

 ウィトゲンシュタインが生前刊行した唯一の哲学書。
 アフォリズム(=簡潔鋭利な評言)集であるこの本は、奇書の部類に入るでしょう。体系的に番号付けられた「命題」の羅列は、哲学の門外漢にしてみればほとんど”詩”のようなものです(笑)。かと思えば、いきなり論理記号や数字が出てきたりしますので、おそらく哲学と論理学の中間点がこのあたりなんだろうな、と勝手に推察したりします(←ちゃんと読めよ)。
 ちなみに、巻末についてる訳者解説は、2003年という比較的新しい時期に書かれていますので、単に哲学の古典書としてでなくその先の理論まで何となく垣間見ることができますし、その理解について時代遅れの危惧を抱かずにすみます(笑)。

 どうでもいいけど、ウィトゲンシュタインとかヴィトゲンシュタインとか、ヴィットゲンシュタインとか、本によって表記がまちまちで一定してないんですよねぇ。何とかならないかなぁ…。


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