| アヒルと鴨のコインロッカー |
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著者:伊坂幸太郎(いさか・こうたろう) 出版:東京創元社 初刊:2003 装丁:デザイン 岩郷重力+WONDER WORKZ。 定価:1500円+税 ISBN4−488−01700−2 |
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[あらすじ] 大学進学のためにアパートに引っ越してきた椎名は、隣室の美貌で長身の青年にいきなり、「一緒に本屋を襲わないか」と持ち掛けられる。 一方、今から二年前、河崎と琴美とブータン人のドルジは、ペット虐待事件に巻き込まれてしまい……。 二つのストーリーが意外な形で収斂する構成が見事な傑作ミステリ。 [CAUTION! ネタばれ注意!] 正直、『葉桜の季節に君を想うということ』の書評は手抜きといいますか、誤魔化してお茶を濁したという自覚がありますので(コラコラ)、本書と同じ年に出版された『葉桜〜』とをネタばれしつつ比較して、叙述トリックについて少し考えてみたいと思いますので、未読の方はご注意下さい。 叙述トリックとは、作者が、登場人物を飛び越して(ここ重要)、読者に対して直接仕掛けるトリックです。登場人物とトリックとの間に関係性がないので、登場人物に感情移入して読むまっとうな読者にとっては、予備知識なしにこの手の作品を読んでもらった場合に、感動したり驚いたりして喜んでもらえるかもしれませんが、何じゃこりゃと怒られることも覚悟しなければなりません。『葉桜〜』はまさにそうした小説です。主人公たちの年齢を読者に誤解させるあいまいな表現と過去の探偵時代の出来事のパートは、読者の驚きのためには必要不可欠ですが、登場人物たちの心象とかストーリーを考えると、前者は無意味ですし、後者は余剰です。 で、本書『アヒルと鴨〜』の場合はどうかといいますと、一読すると叙述トリックです。実際私も驚きました。しかし、ドルジは椎名を騙そうとして仕掛けを施していて、真相を知った読者の驚きも、一人称の椎名という人物を通じてのものですし、そう考えると叙述トリックではないようにも思えます。国籍をあいまいにした描写にしても二年前のパートにしても、『葉桜〜』みたいな無意味な描写でもなければ、余剰なパートでもないからです。著者自身、本書のトリックについて、「読者をだますためのものではなく、主人公の男の子のためのものにしたいと思って、そんなふうに書きました」(※註)と述べていますし。 じゃあ、本書のは叙述トリックじゃないのかといえば、そうではなくてやはり叙述トリックだと思います。それは、本書が”現在”と”二年前”の出来事がカットバック(=視点の切り替え)形式で語られているからです。この形式は作者が読者のために用意したものです(=二年前の出来事は琴美の一人称で書かれていますから、真相を知った椎名にしても、読者よりヴィヴィッドにその時のことを実感することはできないのです)。そして、「主人公の男の子のための仕掛け」の真相が明らかになり男の子が相手の本当の姿を知ったとたん、読者も二つのストーリーの”つながり方”を知ることになるわけです。つまり、ぼかされていた二つのストーリーの間の空白の時間が意外な形でつながって、そこに驚きがあるわけです。こうした意味で本書はまさに叙述トリックです。つまり、本書は一つのトリックで登場人物をだますともに、それを飛び越して読者をも直接だますという、心憎い構成となっているのです。言わば”半叙述”といったところでしょうか。 換言しますと、主人公にとっての真相は、河崎と名乗る人物が実はドルジという名のブータン人だったという、特定人物の一要素(この場合は国籍)の錯誤の解消です。これはこれで衝撃的です。一方、読者にとっての真相とは、二年前の”ドルジ”と現在の”河崎”が実は同一人物だったという、要素よりも大きい、登場人物それ自体の錯誤の解消ということで、主人公とは質の違う、衝撃度のより大きい真相に直面するように仕組まれているわけです。ホントに見事です。 ミステリというジャンルは、小説としての楽しみ方だけでなく、出てくるトリックを解析・分析したり、それを類型化したりして楽しむという、他のジャンルを比較すると奇異な楽しみ方がなされているジャンルです。 いろんな人がやっていますが、例えばジョン・ディクスン・カー(=カーター・ディクスン)は『三つの棺』で「密室講義」、『緑のカプセルの謎』では「毒殺講義」、『魔女が笑う夜』では”中傷の手紙”の類型化といったことを行なっています。また、日本特有のトリックであるアリバイ・トリックについては、有栖川有栖がその著書である『マジックミラー』(講談社文庫)の中で、そのものズバリ「アリバイ講義」という章題で、8つ(9つ?)のアリバイの分類作業をしています。こうした学術的な楽しみはミステリならではのものです。 これに比べますと、叙述トリックの分類は私が寡聞にして知らないだけかもしれませんが、いまだ手付かずの状態だといえるでしょう。理由としては、まだまだ応用の余地がいくらでもあるので作家としては手の内を明かすようなことはしたくない、あるいは、登場人物ではなく読者に対して直接仕掛けるというトリックの性質上、ネタばれしてしまうと作品への興味が極端に薄れてしまうため評論しにくい、と二つくらいの事情があるものと推察します。 でもまあ、そのうち誰かが分類することと思いますが、ちょこっとだけ考えてみますと、叙述トリックには、人物をあいまいに書くか、時系列をあいまいに書くか、あるいは両者の複合型か、の大きく分けて3種類しかないのではないかと思います。で、それぞれをさらに細かく内容とか方法とかを分析することはできると思います。 もっとも、上記の分析にそんなに自信があるわけではないですし、例外はむしろ大歓迎です。 それに、つきつめると、叙述トリックと文体の違いは何か? とか、隠れたテーマのある小説は全部叙述トリックが使われてることになるのか? といったところまで考えないといけないみたいなので……。 要検討、です。 ただ、叙述トリックはあいまいな(と気付かせない)描写で読者を欺くわけですが、そのための煙幕となるのは読者の抱く”常識”です。でも、そうした常識はいつの世にも千変万化にして普遍のものであることを考えると、その分析は案外切りのないものなのかな、とも思います。 ”常識”、という点で考えますと、本書『アヒルと鴨〜』のトリックは、引っかかった後に反省しました。いや、気付かないなんて頭が悪いなぁ、とか、発想が貧困だったなぁ、とかそういう反省ではありません。心が悪かったと、そんな気にさせられました。自分の”常識”を再点検させられた一冊でした。 あ、後、主人公の椎名の叔母・祥子は『陽気なギャングが地球を回す』(伊坂幸太郎/NON NOVELS)の響野の妻と同一人物っぽいですね。伊坂作品間のリンクに興味のある方のため、ご参考までに。 ※註 雑誌『活字倶楽部 ’04春号』(雑草社)所収の伊坂幸太郎のインタビュー(p44)より引用。 |