事 件
著者:大岡昇平(おおおか・しょうへい)
出版:新潮文庫
初刊:1977
装丁:カバー写真 (C)CHERY KORALIC/amana imagees
定価:781円+税
ISBN4−10−106508−X

[あらすじ]
 神奈川県の小さな町で起こった事件。小学校の同級生だったヨシ子と結婚しようとした19歳の少年宏が、結婚に反対する彼女の姉を殺害した容疑で逮捕された。
 新聞の片隅にありそうな事件めぐり、法廷では検察官・弁護人双方がそれぞれの真実を主張し、裁判官は困難な判断を強いられることになる…。
 圧倒的なリアリティで裁判の真実に迫る、法廷ミステリの傑作!!



 作者の大岡昇平はミステリ畑の作者ではありませんし、本書『事件』についても、あとがきによれば日本の裁判の実情を伝えるために書かれたものとされています。
 死体の位地、形状、なとについても、筆者はこれまでにも描写の筆を省いて来た。それらは時々推理小説の眼目となることがあるが、元来決して面白いものではない。実況見分調書を書くのは、司法警察職員の修行第一歩であるが(中略)、それら警察の記録を、現代人の病的な好奇心に添うようにアレンジしたものが、小説やドキュメンタリーとして放出されている。しかしそれらは犯罪の実際について、正しい印象を与えるものではない。そしてもし、そういうものに基づいて裁判批判が行われているなら危険である。筆者はこの点は気をつけて避けて来たつもりである。(p481より)との作中の文章がそのスタンスを明らかにしていると思います。
 つまり、一義的には裁判というものの真実を伝えることが本書の目的なわけです。しかし、そんなお勉強チックな目的の割には本書はとても面白く魅力的です。……なんて感じる読者はひょっとしたら少数なのかもしれません。裁判の真実を伝えるためにドキュメンタリーのような作風を選んだ結果、本書は裁判というものを圧倒的なリアリティで描き出していますが、法律関係書類特有の悪文(笑)まで忠実に再現されています。さらに、発端となる事件自体もそんなに劇的なものではありませんし、多くの読者には敬遠されてしまうかもしれません。
 でも面白いのです。ドキュメンタリー風の筆致は事実を淡々と伝える役割を果し、読者の思考を深々とさせて、のめりこませていきます。それと、本書は裁判の経過を忠実になぞっているため、人定質問から始まって冒頭陳述→証拠調べ→証人調べ→論告求刑→最終弁論→判決といった、一般の刑事事件と同じ手続で物語も進展していきます。したがいまして、事件の背景も、裁判の経過と共に、特に証人調べの段階で、少しずつ浮かび上がってきます。こうした過程はまさに推理小説であり、本書が日本推理作家協会賞を受賞したのも納得です。
 かつて芸術院会員に選ばれながらそれを辞退した著者が、この賞をとても喜んだということですが、それは推理小説へ自らが抱いていた前述の不満が理解してもらえたとともに、裁判そのものの推理性・ミステリ性を分かってもらえたという喜びではないかと思います。
 とにかく、多面的に楽しむことができる作品です。

 多面的といえば、本格、新本格といったミステリ全盛の今日であれば、本書は作者によるご都合主義的画一的真実を批判するアンチ・ミステリとしても読むことができます。人が人を殺した。事実そのものは明白なはずなのに、『殺意』の一点が不明確なのです。事故? 正当防衛? 傷害致死? 殺人? 検察官の主張する真実、弁護人の主張する真実、裁判官の導き出した真実のそれぞれが錯綜し、最後に犯人にとっての真実が明らかになるわけですが、こうした真実の多様性・多層性はまさに(真摯な)アンチ・ミステリとしても秀逸です。
 事件の真実と裁判の真実、どちらか真実なのか? どちらも真実であるならば、どちらも事件なのではないか? こうして考えますと、『事件』というタイトルがいかに相応しいものであるかが分かります。

 本書のもともとの新聞連載は1960年代に書かれていたもので、それに大幅な加筆修正を加えたものが本書です。そのため、裁判制度自体も現在とは多少異なる点もあるので本書をもって現在の裁判を語るわけにもいきませんし、そんなことをしたら著者に怒られてしまいます。
 しかし、問題意識自体は普遍的なものだと思いますし、さらに裁判員制度の導入によって一般市民が重大な刑事事件に関与することが要求されている、まさに刑事手続が過渡期の状況にある今こそ読んでおいて損はない一冊だと思います。もっとも、そんな勉強目的で読むのは野暮かもしれませんけど(笑)。


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