| シティ・オヴ・グラス |
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原題:CITY OF GLASS 作者:ポール・オースター(Paul Auster) 訳者:山本楡美子・郷原宏(やまもと・ゆみこ ごうはら・ひろし) 出版:角川文庫 装丁:カバーデザイン 渋川育由 写真 ASAKO KOIKE 初出:1985 定価:420円+税 ISBN4−04−266401−6 |
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[あらすじ] 作家クィンのもとにかかってきた一本の間違い電話。 「ポール・オースターさんをお願いします」 クィンは、そのまま探偵オースターになりすまして仕事を依頼される。 それが、破滅への一歩だった…。 彼のある部分が死んでから、今の作家クィンがあります。 作中で明示されてはいませんし、おそらく意識的にあまり触れられてはいないのでしょうが、妻と子の死によって、クィンは他人のために存在することをやめてしまいました。これは、物語中では重要なファクターだと思います。しかし、この作品はそんなに単純では(?)ありません。 作家クィンはウィリアム・ウィルソンというペンネームで私立探偵マックス・ワークを主人公の推理小説を書いています。 かつてのクィンから3人のクィンがある。作家クィンは腹話術師の人形で、ウィルソンが腹話術師、ワークは人形の声の役割を果しています。ここでは、クィンはウィルソンとワークという"他人"のために生きています。しかし、ウィルソンもワークも、所詮はクィンなわけですから、そうした他者への依存は欺瞞でしかありません。が、考えようによってはウィルソンもワークも立派な一人格と考えられるのであって、それらが相互依存の結果バランスよくひとつに存在していられるのであれば、問題はないのかもしれません。そうした人生を彼(クィン)自身は"余生を生きているかのように、あたかも死後の人生を生きているかのように"と思っていますが、しかし、端から見れば、かなり綱渡りなきわどいバランスの上に成り立っています。 だからこそ、彼は無意識のうちに活路を求めます。それが、一本の間違い電話によって顕在化します。ポール・オースター(!)という探偵への依頼の電話を、彼は自らの名前を偽って受けてしまいます。それは、クィンがウィルソンとワークに決別することによってクィン自身の存在意義を希求した上での行為ともいえますが、オースターという他人になってしまったことで、クィンの存在はさらに怪しくなってしまいます。クィンの言葉に対して、他者はオースターに対して語りかけることになります。誰も「クィン」には語りかけてきません…。クィンは外界からも、自らの世界からも切り離されて、外界とのつながりを赤いノートのみに託すことになります。しかし、そのノートのページがなくなってしまったら、書くことができなくなったら…。 個の多様性が消失を招きます。消失を防ぐための方法は、名前のために生き、名前の元に他者とのつながりを保つこと。それがなくなってしまった主人公は、最後には書くことに救いを求めます。ここでは、"書くこと"は極めて消極的な意義しか与えられていません。そんな小説があっていいのでしょうか?(笑) 推理小説では、名前が重要な役割を果すことがあります。エラリイ・クイーンみたいに自らのペンネームを小説の主人公にしてみたり、ある登場人物とその名前とを誤解(?)させることによって読者を欺くトリック(一人芝居のトリック)などがあります。つまり、現実と物語世界との関係、物語世界内の存在を示すものとして、名前は非常に重要です。誤解を恐れずにいえば、推理小説においては"登場人物"より"名前"の方が重要なときがほとんどです。なぜなら、犯罪の動機などどうでもいい、というような場合には、それこそ"人"である必要はないので、"名前"だけでよいのです。そもそも、犯人が人間ではない場合だって十分あるのですから、人格の存在を前提にするわけにはいかない場合があるのです。また、登場人物たちは"犯人"という名前を与えられないように行動しています。登場人物記号論が生まれる背景もここにあります。 ということで、推理小説において、名前の重要性は、他の小説形式と比較して特化しているといえるでしょう。 推理小説において、名前の役割をテーマにしている作品としては、森博嗣のS&Mシリーズの6作目『幻惑の死と使途』(講談社文庫)が印象的、かつ、オススメです。このHPでも7作目『夏のレプリカ』と併せてフジモリが書評していますので、興味のある方はお読み下さい。もっとも、ネタばれですのでご注意を(笑)。 この作品は、そうした推理小説の形式をとることによって、名前と人格との乖離現象を描き、人格の消失という"個"の問題を書くことに成功(?)したわけです。(これが成功だというのも、人生に対してかなり悲観的な考え方かもしれませんが・笑) だいたい、本書の名前も意味深な(ていうか、ふざけた)ものが多いです。"クィン"はアガサ・クリスティの"クィン氏の事件簿"の、どこからともなく現れ、いつともなく、何処かへと帰っていく探偵役クィン氏からとったに違いありません。(もっとも、作家クィンのつづりはQ・U・I・N・Nですが、クィン氏はQ・U・I・Nという違いはあります。) それに、「ウィリアム・ウィルソン」はポーの有名作品名(新潮文庫や創元推理文庫版などがあります。)で、登場人物の名前だったりします。 マックス・ワークは、一種のジョークでしょう(笑)。 で、探偵オースターは作者の名前と同じ。いかにも、「メタ・ミステリ」です。 そもそも、本書の邦題『シティ・オヴ・グラス』にも問題があります。『幽霊たち』『鍵のかかった部屋』の訳者柴田元幸は、『ガラスの街』という訳にこだわってます。本書の訳者がそうしなかったのは、同時期に角川文庫からトレヴェニアンの『夢果つる街』など「街」のつく海外作品がたくさん出ていたからだが、なかには「グラス」を「草」、つまり大麻と勘違いされることもある、と笑える内幕が訳者あとがきで暴露されています。やっぱり、『ガラスの街』にすべきでしたね(笑)。 さらには、表紙は『シティ・オヴ・グラス』なのに背表紙は『シティ・オブ・グラス』(ヴとブの違いです)。細かいようですが、どっちが本当ですか?(笑) ということで、いろんな意味で面白い本です。 |