弁 護
原題:THE DEFENSE
著者:D・W・バッファ(D.W.buffa)
訳者:二宮磬
出版:文春文庫
装丁:カバー 坂田政則
初刊:1997
定価:800円+税

[あらすじ]
 "勝って当然の裁判に負けたことはなかったし、負けて不思議のない裁判のほとんどに勝ってきた"辣腕刑事弁護士ジョーゼフ・アントネッリは、継父による少女レイプ事件で、被告人である継父の弁護を引き受けた。継父は誰が見ても有罪であったが、アントネッリは巧みな弁護によって被告人を無罪とした。しかし、その事件は彼の人生を大きく変えることになった…。



 本書について述べる上で忘れていけないことが二つあります。一つは、本書の舞台がアメリカであって、裁判も当然アメリカの法律に基づいて行なわれているために日本の裁判とは異なる点がたくさんあるということ。もう一つは、本書はあくまで"小説"、リーガルサスペンスであるということです。
 というもの、本書を読んでいてアイヨシは疑問で仕方がなかったのですが、「いくら何でも検察側が無能すぎるのでは…?」と思わずにはいられなかったからです。アイヨシはアメリカの刑事法や裁判について詳しいことは知りません。しかし、いくら主人公であるアントネッリに勝たせる必要があるとはいえ、もう少し検察側にはやりようがあるような気がしてなりません。もしこのようなことが本当なら、アメリカの刑事裁判は相当病んでいると言わざるを得ません(詳しくは本書を読んで下さい・笑)。
 もっとも、巻末の中嶋博行の解説「新たな巨星の誕生」によれば、著者のD・W・バッファはシカゴ大学を卒業後、オレゴン州で弁護士を開業して刑事裁判で15戦全勝という記録(有罪率が99%を超える日本では考えられません!)を打ち立てたそうですから、本書の物語も荒唐無稽なものではないのでしょうが、それにしても検察側の立証はずさん過ぎると思います。そんなわけで、本書を最初に読んだときには、面白い本だとは思いましたが、このコーナーで取り上げようと思うほどの印象は受けませんでした。
 しかし、阿刀田高の『ミステリーのおきて102条』(角川文庫)p327以下の「現実感について」という項を読んで、少し考えが変わりました。身も蓋もない要約をしてしまいますと、現実と現実感は異なるものであり、フィクションにおいては後者こそが重要であるということが書かれています(本当はもっといいことが書かれているので、できれば原文に当たって下さい)。
 『ミステリーのおきて102条』は推理小説についての阿刀田高のエッセイですが、本書のようなサスペンスについても上述のことは当てはまると思います。ただ、リーガルサスペンスという本書の性質上、社会背景を題材にしているだけに、一歩間違うと現実の社会問題について誤解をしてしまうことが考えられるので、そうした点でちょっと不満に思ったわけです。しかし、あくまでこの物語はフィクションであるということを忘れさえしなければ、本書は凡百のリーガルサスペンス(=無実の被告人を救うために弁護士が巨悪に立ち向かうというステレオタイプのもの)とは切り口を異にする、深遠なテーマを扱った作品として、物語に没頭しても問題ありません。

 通常のリーガルサスペンスでは、無辜の市民が無実の罪を着せられる危険のみが強調されます。しかし、それと同じ理屈で有罪の被告人が無罪となってしまう危険もあるわけです。両者はコインの裏表なのです。
 アメリカの刑事裁判では検察官が有罪の証拠を、弁護士が無罪の証拠を提出して、それに基づいて一般市民から選ばれた陪審員が有罪・無罪を決定します。このとき、刑事事件においては「疑わしきは被告人の利益に」の原則(この原則は日本の刑事裁判でも適用されます。)が妥当することから、どちらとも判断できない場合には被告人は無罪となります。
 裁判とは、証拠という名の情報戦です。それぞれの主張する事実を裏付ける証拠を集めて、法廷において陪審員にアピール(ときには役者も真っ青の演技力で!)することによって判決が(この場合は正確には"評決"です。)決まります。つまり、現代の裁判では立証が尽くされたか否かが大切なのであり、そこでは証拠の質と量が勝敗を決することになるわけです。
 情報戦というからには、もちろん虚実が錯綜します。検察官は被告人を有罪にするため、弁護人は被告人を無罪にするために奮闘します。検察官側は国家機関ですので情報収集能力において圧倒的に有利な立場にいます。しかし、前述の「疑わしきは被告人の利益に」の原則によって勝利条件自体は弁護人側に有利です。すなわち、弁護人側は検察側の主張に疑義を持たせるだけでよく、自らの被告人が無罪であることを積極的に主張・立証する必要はないのです。陪審員に対して、検察側の主張を疑わしく思わせることができたら、それで弁護人側の勝利なのです。本書の主人公である弁護士のアントネッリはこの点を巧みにつくことによって、弁護の対象である被告人を次々と無罪にしていきます。
 このように、現在の裁判とは、立証の成否を争うゲームとして考えることが可能です。しかし、裁判の本来の役割は真実の究明です。決して検察側と弁護人側にゲームの場を提供するためではありません。両者を対立させてそれぞれに主張を尽くさせる審理システムも、それが真相究明のために優れたものだと考えられたからこそです。しかし、それぞれが自らに形式的に割り振られた役割に徹しきってしまうと、真実の究明という本来国民が裁判に求めている機能が失われてしまいます。法は必ずしも正義を理想としつつも正義そのものではありません。運用や解釈などによって両者はときに全く異なるものとなる危険があります。こうしたことが法律という学問の嫌われる原因となっていることは否定できないと思います。しかし、正義も法も人間の作り出した概念であって、中身を与えるのはやはり人間です。状況によって上手に付き合っていくしかないでしょう。
 弁護士は何のために働くべきなのか?被告人を無罪にするためか?それとも真実を究明するためか?法律を少し学んだ人にとっては珍しくもない問題提起でしょうが、おおかたのリーガルサスペンスが検察側を悪役視する冤罪事件のみをテーマに扱っていることに比べると、本書の切り口は新鮮です。

 ここまで、何とか本書の内容や感想について述べてきましたが、正直苦労しました。苦労の主な原因はリーガルサスペンスならではの社会学的な法律問題の説明に苦慮したことです。このコーナーは法律コーナーではなくてあくまで書評コーナーですから。ただ、面白い小説を読んで、ついでに法律についても詳しくなれれば言うことなしでしょう(笑)。
 もう一つの理由として、本書のプロットと関係があります。いわゆる"驚愕のラスト"というのが用意されていまして、それを明かすわけにはいかないからです。いわゆる"新本格"といったミステリを読んでいる方には容易に予想できるラストかもしれませんし、事実アイヨシもすぐに仕掛けそのものは見抜くことができました。しかし、その事実に直面したアントネッリがその後の人生をどのように過ごすのかということを考えると、仕掛けを見抜いた後でも引き続きページをめくらずにはいられません。
 評決と真実、そしてアントネッリの真実…。何が一番大事なものなのか、そうした問題に比べれば"驚愕のラスト"などとるに足らない問題といえるでしょう(コラコラ)。

 

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