レディに捧げる殺人物語(別題「犯行以前」)
原題:A MURDER STORY FOR LADIES(Before the Fact)
著者:フランシス・アイルズ(Francis Iles)
※「フランシス・アイルズ」は「アントニイ・バークリー」(本名:アントニイ・バークリー・コックス)のもう1つのペンネームです。
訳者:鮎川信夫
出版:創元推理文庫
装丁:カバーデザイン 名取智子
初刊:1932
定価:583円+税

[あらすじ]
[注:本書はその物語の性質上、"あらすじ"からネタばれになってしまうことを回避することができません。あらかじめご了承下さい。]

 自らの容姿にj自信のないリナは、若かった頃は女権拡張運動に参加するなどして精力的に活動していたが、いつの頃からか自らの知性を軽蔑し、結婚することを熱烈に希望するようになった。そうして28歳になった彼女は、ようやく魅力的な男性ジョニーと結婚することができた。しかし、結婚から8年が経ち、彼女は自分の夫が殺人者であることを知った…。



 ミステリに必要な登場人物として、犯人と探偵、そして被害者の存在を挙げることができます。そして、通常のミステリは探偵側の視点から、犯人がどうやってその犯行を行なったのかを解決していく過程が描かれていきます。
 少数ながらも例外的なものとして犯人の側から物語が描かれるものがあり、そうした作品は倒叙ミステリと呼ばれます。代表的なものとしては本書と同じくフランシス・アイルズの書いた『殺意』(創元推理文庫)があります。しかし、被害者側から描かれたミステリというのはほとんどありません。特に殺人が主眼となっているミステリで被害者の視点から描かれた作品は、長いミステリの歴史の中でもほとんどないと言ってよいのではないでしょう(幽霊を作中に登場させることによって被害者に探偵役をさせるなどというものはありますが…)。本書『レディに捧げる殺人物語』は、信じられないことですが幽霊を登場させることをせずに被害者の視点から殺人事件を取り扱った物語です。

(余談ですが、「フランシス・アイルズ=アントニイ・バークリーは、探偵側の視点からミステリを書きつつも(代表作は創元推理文庫『毒入りチョコレート事件』)、犯人側から『殺意』、被害者側からは本書を書き、更にはそれらの集大成的な作品として創元推理文庫『試行錯誤』を書いたのではないか。二つのペンネームを使ったのはそうした意図を隠すための煙幕ではなかったのか。」などということをついつい考えてしまいます。発刊順序もピッタリきますし。もっとも、それ以上の根拠は何もないですが…。)

 どうやって被害者の視点からミステリを描くのか?
 この作品の別題(どうして別題があるのかは分かりませんが…)である"犯行以前"がその答えです。つまり、犯人と被害者が出会い、動機が形成されて犯行が計画されて、そうして犯行が実行されるその寸前までを描く(ここで物語が終わります)ことによって被害者の視点からの作品として成立しているのです。「そんなんでよく本になるなあ…」と思う方もいると思いますが、ちゃんと一冊の本になっています。しかも435ページもあります(笑)。立派な長編小説です。

 作者であるアイルズは『殺意』によって犯人の視点からの克明な心理描写による"心理のミステリ"という新たなエンターテイメントの途を切り開きましたが、本書はそうした心理描写を更に徹底させています。「世の中には殺人者を生む女もあれば、殺人者とベッドをともにする女もある。そしてまた、殺人者と結婚する女もある。リナ・アスガースは、八年近くも夫と暮らしてから、やっと自分が殺人者と結婚したことをさとった。」(本書p8より引用)というショッキングな文章で始まり、かつ、既に述べてきたように被害者の視点から語られるという画期的な物語であるにもかかわらず、作中には陰惨な場面が全くありません。もっとも、作中では主人公を客体とした犯行までの過程という本筋の殺人以外に二つの"殺人事件"が発生します。しかし、これらの犯行現場を主人公であるリナが実際に目撃したわけではなく、後になってから怪しい証拠を発見し、あるいは状況証拠からジョニーの犯行を確信しているに過ぎません。
 もっとも、陰惨さに欠ける要因の一つに、それらの殺人が果たして殺人と呼んでよいのかという微妙な行為によって行なわれていることがあります。一般に"プロバビリティーの殺人"と呼ばれるものですが、「状況だけは設定しておいて、被害者自身に死を選ばせようという」(本書の中島河太郎による「解説」p441より引用)方法によって犯罪が行なわれています。そうした客観的にもけじめのつけようのないモヤモヤした状況が、尚更リナの心理を葛藤と恐怖、混乱と焦燥という不安定なものにし、心理的サスペンス小説としての成功に一役買っています。

 それにしても本書で特筆すべきは主人公であるリナとその夫ジョニーという、二人の登場人物が良く書けていることでしょう(ミステリらしくないですね・笑)。
 夫であるジョニーは二枚目で愛想がよいですが、責任感が全くなく仕事は長続きせず金銭感覚もなく、女癖が悪く博打はするという始末に負えない男です。そうして陥った金銭的苦境を乗り切るために詐欺や窃盗といった行為に走り、更には殺人行為にまで手を染めるわけです。そんな最低男ですが恋愛スキルは人並み外れたものがあり、また一応リナのことを愛しているので、様々な悪事がリナにばれる度にどうにかこうにかしてリナの歓心を得てリナとの結婚生活を続けていきます。しかし、そんなジョニーへの不信を隠せなくなり彼の行動を細かく管理するようになったリナに対して、ジョニーはついに殺意を生じます…。
 対するリナは聡明な知性を持ちながらも結婚願望の強さゆえに結婚相手を見誤りジョニーみたいなどうしようもない男と結婚してしまいますが、なまじ知性に自信があるために、私がこの人を変えてみせる!みたいな余計な熱意を持ってしまいます。良家の箱入り娘であった彼女は、夫に浮気をされたり大事な家財を売り飛ばされたりして怒り心頭に達しても、その度にジョニーの手練手管にコロッと騙されてしまいます。そうした自信と不安という両立困難な感情の綱渡りが、やがては自らが殺人の被害者となることを知りながらもそれを受け入れることによって陶酔感を感じるという、究極の自己満足ともいえる境地へと達します。この辺りの心理描写はホントに見事です。読んでて妙に納得し、ときには吐き気を覚える程です(笑)。

 …なんだか、「この作品はひょっとしたらかなり悪趣味な作品ではないのか?こんな作品を面白かった作品として紹介していいのか?」という疑問がふつふつと沸いてきましたが面白く読んでしまったのですから仕方がありません(笑)。
 ジャンルは一応ミステリに分類しましたが、主人公の心理描写を書くことに徹底していることや探偵役が登場しないことなどを考慮しますと、ハッキリ言ってミステリではありません(笑)。犯罪心理小説としてサスペンスに分類するのが本当でしょうが、まあ、この作品の魅力を語る上でそんなことは瑣末なことです。静かで不気味な心理の戦慄を存分に楽しんで下さい。

 

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