殺意
原題:MALICE AFORETHOUHT
著者:フランシス・アイルズ(Francis Iles)
※「フランシス・アイルズ」は「アントニイ・バークリー」(本名:アントニイ・バークリー・コックス)のもう1つのペンネームです。
訳者:大久保康雄
出版:創元推理文庫
装丁:カバーデザイン 柳川貴代+Fragment
初刊:1931
定価:700円+税

[あらすじ]
 イギリスの片田舎に住む開業医のピグリー博士は37歳。人より低い身長にコンプレックスを抱いているがゆえに女性を追いかけずにいられないこの男が、名家の生まれで年上で傲慢で鼻持ちならない妻を殺害する完全犯罪の計画を立てた。執拗にして克明な心理描写は読む者を圧倒する…。果たしてピグリー博士は完全犯罪を成し遂げることができるのか?!



 「エドマンド・ピグリー博士が妻を殺す決心をしてから、それを実行に移したのは、何週間かたってからのことだった。人を殺すとなれば、ただことではすまされない。うっかりしくじったら身の破滅である。ピグリー博士は破滅の危険までおかす気はなかった。」(本書p6より引用)

 という文章から始まるこの物語は、いわゆる倒叙ミステリの傑作として知られています。それまで物語の最後になって明らかになる存在であった犯人を最初に明示して、かつ、主人公にして書き上げるという大胆な手法がとられた作品です。(もっとも、倒叙形式のミステリとしては他に前例があるようですが…。詳しくは中島河太郎による本書の解説を参照して下さい。)

 本書のオビに書いてある文章によれば倒叙ミステリ(Inverted Detective Story)とは、「探偵の側からすべてを語る従来の本格ミステリに対して、犯人の側から書いた形式のミステリ」ということになります。
 その代表例として、テレビドラマの"刑事コロンボ"や"古畑任三郎"が挙げられています。しかし、それらの例は題名がズバリ探偵役の名前になっていることからも明らかなように、所詮は探偵の視点から描かれた物語です(面白いことは確かですが)。確かに、それらの作品は犯人の視点による犯行シーンから物語が始まりますから、そうした意味で"倒叙"といっても間違いではありません。しかし、"刑事コロンボ"の場合は、謎解き物語の宿命ともいえる序盤の退屈さを何とか回避するために冒頭に殺人シーンを持ってくることによって視聴者の興味を引き付けるという目的から倒叙的構造になったと考えるのが妥当と考えます(阿刀田高著・角川文庫『ミステリーのおきて102条[→Amazon]』p59以下参照)。
 だとすれば、同じ倒叙的構造ながらも、『殺意』はそれとは異なる倒叙ミステリであるということになります。なぜならば、『殺意』の場合は、徹頭徹尾、犯人であるピグリー博士の視点で物語は語られ探偵による絵解きは一切行なわれませんし、殺人事件がなかなか発生しないところも"コロンボ"とは異なります。犯人の、犯人による、犯人のための物語なのです。名犯人あっての名探偵といわれますが、そうした意味で、本書はある意味でミステリの王道ともいえる作品でしょう(笑)。

 『殺意』のミステリ史上における意義としまして、本書は探偵小説において、「だれが」「どうやって」といったパズル的な謎から、人間の性格そのものを「謎」として扱うことへの方向性と意義を具現化した作品といえます。本書は、"倒叙"という構成によってそれを実現し、"心理のミステリ"の面白さを提言することによってミステリに新たな光をもたらしたのです。そうした見事な成果は、他ジャンルへも影響を与えたことが指摘されてもいます(『夜明けの睡魔』p254以下参照)。
 このことは、決して作者が従来の探偵小説を否定していることを意味しません。従来の探偵小説の素晴らしさを踏まえた上で、それに留まることなく更に上を目指すことを提唱したと考えるべきです。実際、本書は一貫して犯人の視点から物語が語られているにも拘わらず、あっと驚く鮮やかなラストが待っています。この爽快な読後感はまさに本格ミステリならではのものです。アイヨシはこのラストが大好きです(笑)。

 以上のように、本書は"倒叙"という本来のミステリとは違った構造の作品ですが、とにかく主人公にして犯人であるピグリー博士の心理描写は"お見事!"の一言に尽きます。とにかくしつこく粘っこく、犯意が生まれるところから始まり、犯行計画の立案、犯行の瞬間、犯罪後の心境の変化、捜査官との駆け引き、有罪無罪の瀬戸際である法廷での手に汗握る攻防など、殺人者の心理を、これでもか!という程に克明に、生き生きと描いています。読んでてときどき気分が悪くなる程です。笑えない個所もしばしばです(殺人者が主人公の物語ですから……)。しかし、基本的には皮肉の聞いた文体で書かれているので、何とか楽しく読むことができます。妻への憎しみというミステリでは平凡な動機ですが、この作品の場合にはその平凡さゆえにかえって心理描写の秀逸さが際立ちます。
 もう少し具体的に書きますと、ピグリー博士は自らの外見にコンプレックスを持っているのですが、その辺の心理もなまじ説得力があるので不快ですし、何人もの女にちょっかいを出す自己本位ながらも分からんでもない心理(ホントに勝手です!)も克明に書かれているのでかなり不快です。よくもここまで書くものだと呆れるほどに見事です。
 余談ですが、本書でピグリー博士は医師としての知識を生かして細菌による殺人も試みています。炭疽菌テロなどという物騒な事件が起きている昨今では多少なりとも興味を抱く方もあるのではないでしょうか?

 ちなみに、いわゆる倒叙ミステリの三大名作として、本書の他に『クロイドン発12時30分』(F・W・クロフツ/創元推理文庫)と『伯母殺人事件』(リチャード・ハル/創元推理文庫)がありますが、心理描写の見事さと鮮やかな結末という点で『殺意』が頭一つ抜きん出ているといえるでしょう。
 また、この手法が初めて試みられたとされるのが『歌う白骨』(オースチン・フリーマン/嶋中文庫)です。倒叙ミステリを体系的に語る上では欠かすことのできない作品です。

 そんなわけで、まさに歴史的名作の名に相応しい作品です。書評のジャンル分類では一応”ミステリ”に分類しましたが、心理の面白さを追及したという意味ではむしろ純文学に近い作品であるともいえます。ですから、ミステリにあまり興味のない人にもオススメですが、本書の鮮やかなラストの存在を考えると、やはりまずはミステリ愛好家に激奨する一冊です。

 

書評TOPページへ