試行錯誤
原題:Trial And Error
著者:アントニイ・バークリー(Anthony Berkeley)
訳者:鮎川信夫
出版:創元推理文庫
装丁:カバーイラスト 西山くに子
   カバーデザイン 小倉敏夫
初刊:1937
定価:840円+税
ISBN4−488−12304−X

[あらすじ]
 評論家のトッドハンターは、動脈瘤で自らが余命幾ばくもないことを知らされる。残されたわずかの時間をいかに過ごすべきかという問題に直面した彼は、文芸誌の編集者や牧師といった友人などにそれとなく意見を聞いた結果、殺人が最良の途であるという結論を得ることになる。トッドハンターの余命を賭けた、可笑しくも苛酷なドラマが幕を開ける!



 アントニイ・バークリーという作家は、いわゆる本格ミステリという小説のジャンルを、より広義のミステリーというジャンルへ移行することの一定の意義・可能性をいくつかの作品に提示したということが言えると思います。本書『試行錯誤』は彼のそうした作品の中の1つです。それは閉塞傾向を見せていた本格ミステリに新しい風を吹き込むと同時に小説という表現形式自体にも大きな自由を与えました。現在、多くの小説がミステリーと呼ばれる傾向がありますが、そうした現象が生じた遠因を探っていくと、バークリーの存在をそこに見ることができると思います。

 フランシス・アイルズ名義の作品を含め、バークリーの作品は暗黙のルールの下に成り立つミステリというジャンル形式に対してのシニカルな視点が特徴であるといえます。それは、五部構成になっている本書の各表題からも見て取ることができます。
 すなわち、プロローグとエピローグをはさんで、

第一部 悪漢小説風 トッドハンター氏、犠牲者を求む
第二部 安芝居風 あずまやでの殺人
第三部 推理小説風 超完全殺人事件
第四部 新聞小説風 法廷の場
第五部 怪奇小説風 土牢

となっていますが、第三部の表題が"推理小説風"となっていることからも分かるように、バークリーは本書を推理小説−ミステリ−としては書いていないのです。もっと大きな枠組みで、高い(皮肉な)視点から本書を書いているのです。本書は、本格ミステリの古典と呼ばれる『毒入りチョコレート事件』によって示した推論の多様性や倒叙ミステリの傑作『殺意』(共に創元推理文庫)によって示した推理小説の心理的側面の重視への必然性をいう先鋭的な作品の執筆を通して本格ミステリというジャンルの新たな可能性を常に模索していたバークリーだからこそ書くことのできた見事な大長編だと思います。
 ついでなのでここで触れておきますが、本書以前にフランシス・アイルズ名義で執筆された『殺意』によって著者が指向した"心理学的要素の重視"を無視して本書を読むことは少しもったいない気がします。また、本書で探偵役を務める犯罪研究家チタウィックは『毒入りチョコレート事件』における推理の競演でトリの役割を担っている人物でもあります。ですから、本書を読む前にまず『毒入りチョコレート事件』『殺意』を読むことを推奨します。

 物語は、トッドハンターが自らの人生の終幕が近いことを知ることから始まります。彼は自らの生命の価値という問題に直面します。そして、周囲の人間にそれとなく残りの人生の有意義な使い方を相談するのですが、そこで一般に言われているような人命の尊厳について疑問を呈することになります。そして、一定の場合には殺人に正当性が認められる場合があり、また「余命の少ない者にとっては殺人防止のもっとも強力な実際的理由、つまり死刑の恐怖がなくなる」(本書p21より引用)ことを、皮肉にも本書の探偵役から指摘されます。その上で、政治的暗殺の有益性が否定され、最後に個人的な殺人こそが有益な人生の使い方であるという結論を得ます。
 そうした抽象的な問題提起から、物語は具体的段階になっていきます。よくあるショートショートのように、残り少ない人生を全世界の役に立てるために命がけの活躍をした後に、実は誤診だったというようなロマンチックなストーリーとは、本書は全く無縁なのでご安心下さい(笑)。
 正当で、かつ個人的な殺人における適切なターゲットの選定、殺人の方法の決定、実行段階における葛藤と動揺などがつぶさに描かれます(冷静に考えると実にスケールの小さい動機・スケールの殺人ですが…)。そして、物語はついにその瞬間を迎えます(この辺はネタばれになってしまうので、曖昧な表現にならざるを得ないことをご了承ください…)。
 物語の中盤以降は彼の策略によって無実の罪を着せられてしまった人間を救うために自らの有罪を主張することに奔走するという、通常の法廷ミステリの流れに逆行した意外な展開をみせます。これがまた面白い!

 今までの文章から何となく読みとれるかと思いますが、本書にはユーモアというオブラートに包まれてはいますが、かなりの"毒"があります。この点、真面目な方には「不謹慎な!」と思われるような個所もないことはないです。実際、洋の東西を問わずにユニークなミステリばかりをまとめた『バカミスの世界』(小山正とバカミステリーズ・編 ビー・エス・ピー)では「バカミスというより『毒ミス』とったほうがぴったりかもしれない」と評されていますし…。もっとも、アイヨシはそういうのが大好きなんですけど(笑)。

 以上のように、本書はユーモアあり毒ありで、心理的サスペンスを重視した名作となっていますが、そのくせ物語のラストではそこらの本格ミステリも真っ青のどんでん返しが用意されているのですから、ホントにバークリーは油断のならない作家です。


[余談]
 ところで、もし自分の命があと1週間だとしたら残りの人生をいかに過ごすか?という議論は誰もがしたことがあるのではないでしょうか?アイヨシもまだ若かったころにそんな話題を真剣に語り合っていた時代がありました…。確かそのときは「銀行強盗でもしようか?」などと馬鹿なことを言っていたように思いますが、どう考えても上手くいくわけがないですし、楽しくなさそうです。ただ、やってはいけないことをやってみたいという天邪鬼な想いは強いです。
 ホントのことを言いますと、何か特別なことをしようとは思いません。仕事はしたくないですが(笑)、それ以外は、読みたい本を読んで、好きなときに寝て食べたいものを食べて、死後に誰にも迷惑がかからないように後始末を済ませた上で、普段どおりに生活してひっそりと死んでいくのが理想でしょうか…。
 矛盾しているようですが、"死"が目前にあると分かっていても、それによって自分の生き方が変わるものではないということを示すことによって、それまでの自分の人生の価値というか意義を証明できるのではないか?と思うのですが、それほど大層な人生を過ごしているわけでもないですし…。まあ、月並みですが一瞬一瞬を大切に、かつ、いい加減に生きていくようにしましょう(笑)。


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