夜明けの睡魔
作者:瀬戸川猛資
出版:創元ライブラリ
初刊:1987
装丁:カバーイラスト ひらいたかこ
    カバーデザイン 磯田和一
定価:1100円+税

 本書は小説ではなく、海外ミステリ―"ミステリー"ではなく"ミステリ"―の中から、本書の筆者である瀬戸川猛資が好きで面白いと感じた作品を紹介している本です。
 つまり、ミステリガイドブックです。
  ただし、個人で書いているために普通のガイドブックと比較すると偏りがあることは否めません。もっとも、そこが面白いんですけど(笑)。

 「HP内の書評において書評のような本を紹介するとは。お前にはプライドがないのか!」と言われれば、返す言葉がありません(笑)。しかし、本書を紹介しないで書評の原稿を書き続けることはアイヨシには心苦しいのです。実際、アイヨシはこのHP内においてディクスン・カーはじめいくつもの海外ミステリ作家の作品を紹介していますが、そうした作品の面白さを知るためには、アイヨシの書評を読むより本書『夜明けの睡魔』を読んだ方が良いくらいです(オイオイ)。
 瀬戸川猛資という名前に心当たりのない方もいるかも知れませんが、例えば北村薫が『謎物語』(北村薫著・中公文庫)というエッセイ集において『見巧者の眼』と題して、その優れた評論を学生時代の思い出を交えながら論じています(瀬戸川氏と北村氏は大学の先輩・後輩にあたるそうです)。

 本書はおおまかには2部構成になっています。
 前半の『夜明けの睡魔』は、『ミステリマガジン』誌上に昭和55年から30回にわたって連載されたもので、「本格推理小説のガイドのつもりだったが、読みまくっているうちに、現代のミステリの概念が昔とは大きく変わっていることに気がつき、ジャンルを問わずに作品を取り上げてゆくことにした」(本書p16より引用)ものです。
 後半の『昨日の睡魔/名作巡礼』は、『ミステリマガジン』に昭和59年から24回にわたって連載されてもので、「ミステリの概念そのものが大きな変貌を遂げているというのに、それに気づかず、現代ミステリを読もうとせず、昔読んだ古典作品の思い出ばかりを口にするファンが非常に多いのが気になって、意識的に名作古典を冷たく、突き放して見つめなおしてみようと試みた」(本書p17より引用)ものです。

 本書のどの辺が優れているかといえば、抽象的に言えば、まず作品を紹介するための切り口、作品・作家に対する愛着を忘れないこと(たとえその作品・作家を非難する場合でも)、着眼点が優れていること、親しみやすく率直な語り口、といったところでしょうか。文字にしてしまうと当たり前のことになってしまいますが、その当たり前のことができているガイドブックとなるとそうそうない気がします。本書はそうした水準点より遥か上に位置する、優れたガイドブックなのです。

 本書の解説において法月綸太郎も引用していますが、本書内に次のようなマニアの間では有名(?)な文章がありますので、芸のないことですがここに引用します。

 なんとまあ、とんでもないことを思いついたものだ。いや、それだけならまだしも、よくもこの思いつきを小説にしようなどと考えたものだ。しかも、立派にそれが成功してしまっているのだから驚きである。(本書p104より引用)

 これは、エドウィン・コーリィ著『日本武装計画』について語った一節です。エドウィン・コーリィも『日本武装計画』もアイヨシは本書を読むまでは知りませんでした。しかし、上述のような文章を読んでしまったら気になってしまって読むしかないじゃないですか!(ただし、本書は現在絶版とのこと。角川許すまじ!)
 とにかく、作品の紹介の仕方が上手で、ミステリの読み方がしっかりとしていて、語り口は澱みなく明快で想像力をかきたてられます。解説で法月氏が述べているように、まさに"魔法"だと思います。
 他にも引用したい名文がたくさんあるので、以下ランダムに引用します(笑)。

 しかし、ヘンではあっても、ムチャクチャではない。読者の理解力を度外視して、自閉症的妄想を繰りひろげ、それをもって「既成の小説概念を破壊する!」と居直るようなタイプの作品をわたしは好まない。少なくとも、理性と知性の産物たるミステリが、そのようなものであってはならない。(本書p100より引用)

 「ミステリは、作者と読者との知的ゲームである」という口あたりのいい、超マンネリのキャッチフレーズがあるけれども、わたしはこれには積極的に賛成しない。たしかにゲーム的な一面もあるが、それ以前にミステリは小説でなければならない。"頭の体操"的なゲーム・パズルでは困るのだ。小説であれというのは、文学であれという意味ではない。文体が華麗でなくても、人間が描かれていなくてもかまわない。それなりに読み物として読ませ、楽しませてほしい、ということなのである。(本書p186より引用)

 要するに、狂気というものは、現実世界に存在するからこそ狂気なのである。ミステリの世界の狂気は、お話に合わせて都合よくデフォルメされた狂気であり、本物らしく見せかけているまがいものにすぎない。狂気はあくまでも手段・小道具であり、それで何をやるかが問題なのだ。(本書p291より引用。誤解のないように付記しておきますと、瀬戸川氏はルース・レンデルの作品にときどき「本気で狂気してるんじゃないのか?」と白けてしまうときがあるとして、マジで"狂気"なんてすごむのはやめよう、と説いています。)


 さまざまな作品が出現し、日本でも"本格""新本格"などとミステリの意義が揺らぎまくっていますが、海外ミステリもオビを見ればどれもこれも"ミステリ"(もしくは"ミステリー")と銘打ってあって、ミステリを読みたいなと思っても何に手をつけてよいのか分からない状態にあります。そうした状態を非難しているわけではありません。ジャンルという枠に縛られて作品が小さくなってしまっては意味がないのですから。そうした、ジャンルというそれまでのパラダイムが大きな転換期を迎えている現在において、様々な作品があることは必然的なことであるとともに歓迎すべきことではあるのですが、"ミステリを読みたい"という気持ちを充足させるためには何らかの道標も必要です。そうしたときの案内人として本書は最良のものだと思います。


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