| 松本サリン事件報道の罪と罰 | |
| 著者:河野義行・浅野健一 出版:講談社文庫 装丁:カバーデザイン 亀海昌次 初刊:2001 定価:695円 |
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[あらすじ] 「松本サリン事件」で警察は第一通報者の河野義行氏宅を被疑者不詳のまま家宅捜索した。そのこと自体も問題ではあるが、マスコミ各社は一斉に河野義行氏を実名で犯人扱いした報道をした。なぜ無実の人間が犯人扱いされたのか。「松本サリン事件」という冤罪事件における真犯人・警察・マスコミという3者の加害者の内、本書は主としてマスコミの問題点を論じたものである。 刑事事件におけるマスコミのレベルの低さ。『ハイエナ』『遺族にむらがる亡者』といった表現がまさにピッタリの傍若無人かつ無礼極まりない取材活動。その原因となっているものは何か?本書を読んでアイヨシが思ったのは、以下の三つです。 第一に、記者クラブという特異な制度に見られるマスコミという業種の閉鎖的な体質です。それはマスコミ各社間の横並びを助長することになります。 第二に、警察との癒着。警察官による非公式なリーク情報とスクープ報道は誤報による被害の責任をあいまいなものにします。すなわち、警察は『あれは非公式なものだった』として自己の責任を否定し、マスコミは『警察が言っているのだから間違いないと思った』として同じく自己の責任を否定します。よくマスコミが問題にしている「役所の責任逃れ」を彷彿とさせます。 第三に、情報の精度を確認するという基本的な意識の欠如です。もしくは呆れるほどの認識の低さと言っても良いでしょう。ある企業において生産性ばかりを重視して消費者に被害を与えるような製品を生産したらマスコミはその企業をどのように報道するでしょうか? 上記の問題を解決するために、報道被害の顕在化を促進することが必要でしょう。しかし、訴訟を起こすにはマスコミは手強いです。その理由は以下の通りです。 報道の自由は憲法21条で保障されている表現の自由に連なるものであり、講学上民主主義の過程において国民が国政に関与するために優先的な保護を与えられるべき権利として、判例上でもそのように保障されています。そうした権利であるため、報道活動によって取材対象である一般市民に対して人権侵害が行われている現実がありますが、それでも権力でマスコミを規制することは絶対にさけるべきであす。しかし、どうもマスコミはそのことを逆手にとっているように思えてなりません。上記のような理由で報道の自由が優先的に保護されているのであれば、マスコミは、本来的には権力に対するチェック機関としての活動が期待されているわけですが、一般市民に対しての人権侵害が生じたときの言い訳に表現の自由の重要性を利用しているように思えてなりません。つまり、公益とマスコミの利益を都合良く置き換えて議論をしているのです。 報道被害は現代的法治国家における表現の担い手としての専門家であるマスコミと一般市民の間における問題となりますが、両者に対等な闘いを期待することは不可能でしょう。 ただでさえマスコミは報道活動を専門とした企業であり、加えて表現の自由は憲法上優先的な位置を与えられているのです。そうした企業を相手に一般市民が互角に闘うのは至難の業なのです。 こうした問題は、例えばPL法(製造物責任法)においては、製造物の生産者と消費者との間で法律問題が生じたときに、両者の地位の格差を考慮して、訴訟において専門的知識を有する生産者に通常の訴訟より重い証明責任を課すことによって消費者を保護していることと対比すれば分かりやすいと思います。ただ、上述したように、マスコミに対して法的な規制をすることは妥当ではありません。ではどうするべきでしょう。その解決策として本書において、主として浅野健一氏が提案しているのがメディア責任制度、すなわち活字媒体全体を網羅した報道(プレス)評議会の創設です。 ところが、マスコミは自分たちの行動が制限されるのを恐れてか、『表現の自由』を前面に出してこのような議論を前向きに放送することはありません。そんなことを言ったら通常の企業にも営業の自由が保障されているんですけど…。だいたい、マスコミというのは表現の内容を自由に選別することができるのです。テレビのコマーシャルでコマーシャルを自動的に録画しないビデオって見たことありませんしねぇ。 もっとも、このままインターネットが発展すれば近い将来に表現・情報の発信はマスコミではなく個人が中心になっていくでしょう。マスコミのセンセーショナルで低モラルな報道姿勢が改善される動きのない現在の状況では、そうした将来はアイヨシにとっては大歓迎です。 |