ガラスの村
原題:THE GLASS VILLAGE
作者:エラリイ・クイーン(Ellery Queen)
訳者:青田勝(あおた・かつ)
初刊:1954
出版:ハヤカワ文庫
装丁:カバー 北園克衛
定価:640円+税
ISBN4−15−070108−3

[あらすじ]
 ニュー・イングランドの小さな村、<シンの辻>で画家である老婆が何者かに撲殺された。容疑者として逮捕されたのはよそ者の浮浪者であったが、男は金を盗んだ事実は認めたが殺人については否認する。
 しかし、<シンの辻>の人々は、彼が犯人に違いないと考え、司直の手に委ねずに自分たちで裁きを下そうとする。事態が法の枠外で処理されることを恐れた老判事ルイス・シンは従弟のジョニーらと協力し、臨時の特別裁判を開催する一方で、真犯人を見つけ出そうと調査を開始する。


〔Caution!! ネタばれ注意〕

「その崇高ではあるがユモアに乏しい職業の古めかしい記録の中に、裁判の分野の開拓者として祭られますよ。すなわちミュジカル・コメディ殺人裁判という記録です。それはほこり臭い古い法律書の中でも読むものが必ず大笑いをする部分だというわけで大喝采疑いなしですな」(p210〜211より)


 このコーナー、結構「異色作」という言葉を連発しているかも知れませんが(笑)、本書こそ一番の異色作であることを保証します(いや、『二百万ドルの死者』の方が異色ですけど、あれはちょっと疑問が……)。まず、エラリイ・クイーン(探偵の方)が出てこないのです。もちろん彼の親父も出てきませんし、全くのノン・シリーズなのです。

 それはなぜでしょうか?
 というのは、一読すると何となく分かると思うのですが、作品の雰囲気が大分違います。エラリイ・クイーンといえば『本格ミステリ』の代名詞です。しかし、本書の場合、そうした骨組み自体は健在なのですが、しかし、『社会派』の香りもします。
 本書では殺人事件が発生しますが、その事件が州警察に手に移行することを村の住民は拒否し、自分達で容疑者に対して一方的な裁きを下してしまおうとします。このことはまず、初期の裁判の本来的意義を表していると思います。すなわち、裁判とはひとつの社会で発生したルール違反(=犯罪)を解消するための一種の儀式です。「お湯の中に手を入れて火傷しなかったら無罪、したら有罪」とか、「水の中に放り込んで浮かんできたら有罪、浮かんでこなかったら無罪」とかいうのも、それはそれで裁判として機能していた時代がありました。
 もちろん、今ではそんなのは裁判ではありません。民主主義によって定められた法律というルールによって定められたとおりに行なわれていきます。しかし、そのシステムがあまりに巨大化し専門化した結果、事件が発生した社会とそれを裁く裁判所との分離、当事者不在の裁判という現象が起きます。本書で<シンの辻>の村人達が感じている不満もこのように理解できると思います。

 そんなわけで、<シンの辻>の村人達と州警察は一触即発の緊張状態に突入し、事態を憂慮したルイス・シン判事は村人達の言い分を形式的には理解を示しつつ、村の中に民主主義的ルールに基づいた特殊な裁判を一時的に開くことで事件を解決しようとします。
 判事は、州警察という「民主主義の圧力」から反発した結果、住民達が陥った極端で純粋な民主主義、すなわち「村の90%以上の人間がこいつを有罪だと思ってるんだ。だから有罪の裁きを下すのが民主主義ってもんだろう」という倒錯した集団心理によって容疑者が私刑されてしまうことを恐れたのです。
 これは明らかに、本書刊行時期にあたる1950年代に吹き荒れていたマッカーシズム――共産主義者を社会から追放しようという狂信的活動に対する反発というのが作者の意図であると見ることができます。

 ここで村人達に欠けていた視点は何でしょう? 作者の想いを読みとった自信はないのですが、一つの解答として、自由主義、即ち多数の意思によっても奪うことのできない、少数者、一個人に認められた権利という概念の欠如、というのが教科書的(憲法学的)解答だとは思います。
 ただ、こんな野暮な解答はたとえ正解でもダメでしょう(笑)。
 そこで登場するのが本書の主人公であるジョニー・シンです。彼は二度の戦争経験を経て、人生投げやり、すっかり虚無的で何をやるにもだるそうな男です。
 そんな彼に事件を解決する探偵の役割を与えた作者の意図は何か? イデオロギーに踊らされて、「デモクラシーのためであり、自由のためであり、暴君を打倒するため」(p104より)にたくさんの人を殺し殺され、何もかもを考えるのがうざったくなった彼ですが、それでも考えることをやめることができません。
 つまり、主義とか思想とかと関係ない理知の力、灰色の脳細胞に事件を解決させたのです。平たく言えば、「自分で考えろ」ということでしょう(笑)。
 しかし、その辺のところを平たく言わず、論理の光をあてることで理知の力を読者に印象的なものとして表現することができたのは、まさにクイーンのミステリ作家としての力量があってこそのものでしょう。そういう意味では、クイーンが本領を容赦なく発揮した作品だと思います。

 ミステリとしても面白いです。何しろ、閉鎖的な村社会での事件なので、証言のほとんどが信用できない(私だけかも知れませんが・笑)のです。村人全員がグルという可能性もなかなか捨てきれませんでした。そうした緊張感が最後まであったので、かなり面白かったです。
 「人間の死の大量化、匿名化、些末化が、二〇世紀文学として本格探偵小説をもたらした」(※註)とは笠井潔の主張ですが、それをまさに実感できた一冊でした。



※註
 笠井潔はいくつもの著作の中で同じ趣旨のことを一貫して主張しています。ここでは、たまたま手許にあった「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つか?」(笠井潔・著 早川書房)p18より引用しました。


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