| 九尾の猫 | |
| 原題:CAT OF MANY TAILS 作者:エラリイ・クイーン(Ellery Queen) 訳者:大庭忠男(おおば・ただお) 初刊:1949 出版:ハヤカワ文庫 装丁:カバー 巽亜古 定価:720円+税 ISBN4−15−070118−0 |
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[あらすじ] 動機のない連続絞殺事件の発生にニューヨーク市は恐怖に包まれていた。マスコミによって<猫>と名付けられた犯人を追うために特別捜査官に任命されたエラリイだが、予測のつかない連続殺人をくいとめることはできず苦悩する。しかし、九人目の被害者によって事件の”輪”をつかんだエラリイは真相に肉薄するが、しかし……。 〔Caution!! ネタばれ注意〕 かつて、ずっと前に彼が心血をそそいで書いた作品が、今は遺跡から出た土器のかけらのような歴史のにおいがした。大作家先生! 自分の作品を読むがいい。何という駄作だ! エラリイは絶望し、<猫>以前の幼稚な作品を火の中に投げ入れた。 (p340より) 傑作ですよこれは! ただ、この感動はエラリイ・クイーンの作品、特に本書より前に書かれた作品を数冊(最低でも国名シリーズ半分以上)読まないと共感していただけないかもしれません。 本書は、いわゆるミッシングリンクものの代表作として紹介されることがあります。それも間違いではありません。でも、それがこの作品の主眼ではないと思います。 だって、被害者たちのつながりは物語の半分くらいで明らかになってしまいます。そして、ミッシングリンクものとしては、ここで終わってもよいはずなのです。実際、エラリイが演繹的に導き出していたいくつかの法則がパズルみたいにあてはまるあたりはさすがだと思いました。実に見事なもので、ここで終わってもそんなに不満はなかったはずです。 しかし、物語はさらに面白さを加速させて進んで行きます。 物語の始めから一貫していたもの。それは狂気です。動機も意図も感じられない連続殺人。それにおびえてパニックを起こす群衆。それを冷静にみているはずの「探偵役」であるはずのエラリイ。三者三様の狂気は、むしろ事件が終結の様相を見せ始めた時点からその本質を見せ始めます。 犯人の狂気を追うことが、自らの抱える狂気を解消することにつながるかのごとく、エラリイは苦悩します。 登場人物一覧表を見ますと、エラリイは「探偵」として知られていますが、実際は「犯罪研究家」となっています。ですから、犯罪の動機には拘泥せず、犯人を明らかにするための思考過程のみに拘泥していた初期の国名シリーズのスタンスの方が変則的なものであったとも言えます。本書のような、犯罪についての大局的考察は、古典でありながら現代でも十分通用するとものがあると思います。 しかし、それにしても初期の頃の、犯人を楽しそうに探していたエラリイとは大違いです。作者の苦悩がそのまま主人公の苦悩に投影されているのでしょうか? もうひとつ面白いのが、犯罪を通じて語られる一般市民の姿です。 連続無差別殺人鬼の狂気を恐れる一方で、自分たちの狂気には無自覚で、挙句に<猫>以上の死者を出すまでのヒステリックな暴動に発展します。<猫>に殺された人間と異なり、暴動で死亡した人間はただの数字で語られます。この対比が物語を立体的なものにしています。 それにしても、この作品からは一般大衆に対する不信なようなものが感じられます。1940年代後半から起こったいわゆる「赤狩り」の雰囲気を反映したものでしょうか? と、ここまで悩み苦しんでおきながら、それでいて最後の最後にどんでん返しとは!! もうお手上げです。まあ、トリックはたいした事ない(でも、クイーンのアリバイものって珍しいかも)のですが、虚をつかれたといいますか、スゴイ不意打ちです。 自らのそれまでの作品を「遺跡から出た土器のかけら」と言い切り新しいことを書こうとする作者の決意。形は違えど、今まで国名シリーズでやってきた読者への挑戦よりも挑戦的な意志の表明だと思います。この果断さにはしびれました。 作品の最後をしめるセリグマン教授がエラリイにかけた言葉「マルコ福音書にある言葉だ。”神はひとりであって、そのほかに神はない”」(p403)。それは、『日本庭園の秘密』で明らかなように神を気取っていたエラリイに対して、作者が人間宣言を下したもののように思います。 |