フランケンシュタイン
原題:FRANKENSTEIN;OR, THE MODERN PROMETHEUS.
作者:メアリー・シェリー(Mary Shelly)
訳者:森下弓子
初刊:1831
出版:創元推理文庫
装丁:イラスト 松野光洋
    カバー  矢島高光
定価:560円+税

[あらすじ]
 若き天才科学者フランケンシュタインの手によって作り出された「怪物」―解剖室などから人間の各器官を寄せ集めてつぎはぎされた肉体―その身体に生命が吹き込まれたときから悲劇の幕が上がる。
 「怪物」の醜悪な姿に理性を失い、逃げだしたフランケンシュタイン。生命を得た「怪物」は、やがて心を持ち知識を得て、孤独を知り愛と理解を求める。だが、「怪物」はその醜悪な姿ゆえに拒絶され疎外される。
 そして、「怪物」は再びフランケンシュタインの前に現われる。「怪物」は彼に言う―自分の伴侶を作ってほしい、と。



 フランケンシュタイン―ドラキュラ、狼男と並んで三大モンスターに数えられている有名な怪物神話の原作で、現代のホラー・SFの原点ともいえる作品であるにもかかわらず、以外に読まれていません(「三大モンスター」については、風間賢二著、角川選書「ホラー小説大全」に詳しいです)。
 あまつさえ、フランケンシュタインというのは「怪物」を生み出した科学者の名前であるのに、「怪物」のことだとみなされている節があります。もっとも、日本の場合には藤子不二夫(A)の「怪物君」の影響が大きいでしょう。それに、映画でボリス・カーロフが扮した「怪物」があまりにも見事だったのも(首からボルトが飛び出ていて、「アー、ウー」としか話せない)原因の一つでしょう。

 原作の「怪物」の容姿は、「黄色い皮膚は下の筋肉や動脈の作用をほとんど隠さず、髪は黒くつややかにすらりと伸び、歯の白さは真珠のよう。だがそんな贅沢は、いっそうおぞましくきわだたせるばかりでした。はめこまれた薄茶の眼窩とほとんど同じ色に見えるうるんだ目、やつれたような顔の色、一文字の黒い唇を。」(本書p74より引用)というもので、見る者がことごとく不快感を覚えるほど醜悪なものです。
 身体能力は常人をはるかに凌ぐもので、パワー・スピード・スタミナ全てが人間のレベルを超えています。
 しかし、もっとも恐ろしいのは、フランケンシュタインがどれだけ警戒していても現われては消える、『瞬間移動』としかいえない能力のような気が…。いや、本気にしないで下さい。冗談ですよ。こういうところは、「13日の金曜日」シリーズのジェイソンを彷彿とさせます。

 本書を、主人公であるフランケンシュタインの視点から中心に考えるときには、いわゆる"自走するテクノロジー"を描いた作品として読むことができます。すなわち、現代の核やコンピュータの恐怖です。
 そして、SF小説の原点として捉えられます。例えば映画化・ゲーム化されて話題になった瀬名英明著「パラサイト・イヴ」の原点として位置付けることができます。また、一般的にはロボット小説の原点といえるでしょう。
 フランケンシュタインは言います―愛や幸福を破壊するような研究は正しくない、と。

 「怪物」の視点からこの作品を考えると、「楽園喪失」のテーマが浮かび上がってきます。生まれたばかりの「怪物」には、ぼんやりとした自我しかありません。それが次第に心、感情を持つようになり、知識・知恵を持つようになります。
 しかし、それゆえに孤独を知ることになり、他者との理解を求め、愛を欲するようになります。その果てに、「怪物」は拒絶され、憎しみと復讐を糧にのみ生きていくようになってしまいます。
 物語内において、「怪物」はミルトンの「失楽園」を読んで感動します。と同時に自らの呪われた身の上を知ることになります。

 「怪物」は、フランケンシュタインの前に現われて、自らの伴侶を作るように迫ります。自分と同じく呪われた、女性の「怪物」を作るようにと。
 フランケンシュタインは、自分が逃げ出した後の「怪物」の身の上話を聞かされ同情します。実際、作品内での「怪物」の身の上話は心の成長そのものであり、フランケンシュタインも一時は「怪物」の伴侶を作ることに同意します。
 しかし、フランケンシュタインは「怪物」の伴侶を作ることを拒否します。「怪物」への同情と人類という種族への義務を秤にかけ、結果、人類への義務を選択したのです。
 それによりフランケンシュタインは「怪物」の憎しみの対象となります。そして、「怪物」はフランケンシュタインの友人と妻を殺します。
 フランケンシュタインは「怪物」を殺すことを誓います。「創造者」と「被造者」の戦いは、勝者のない悲哀に満ちた結末を迎えます。

 この他にも、この作品は様々な読み方をすることができます。この点は本書の解説(新藤純子)が詳しいのですが、自我を得た「怪物」が人間社会への共存を望むところはP.K.ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」(ハヤカワ文庫)に通じます。
 また、ドッペルゲンガーすなわち〈抑圧された本能=汚く醜いものが脅威となって回帰してくる〉という心理学的読み方もできます(この点は前掲「ホラー小説大全」p122以下が詳しいです)。この読み方をした場合には、「怪物」とその創造者フランケンシュタインを混同するのもあながち間違いではないことになります。ホントに、本には色々な読み方があるんですねぇ…。

 これだけたくさんの読み方ができ、後世に与えた影響が大きい小説であるにもかかわらず、この小説自体があまり読まれていないのは、この小説の価値が「それ自体の完結、古典としての完成度にあるのではなく、それ自身がひとつの可能体であり、さまざまな"子供たち"を作り得る、その可能性にある」(本書「解説」p314引用)からでしょう。
 でも、アイヨシとしては作品自体にも十分な価値があると思います。「怪物」の悲哀・絶望、フランケンシュタインの知識への渇望、技術的には異常な物語に現実味を持たせる"語り"の構成(本書「解説」p304参照)など、まさに「温故知新」を体現している小説だと思います。


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