| フジモリの脳内ラビリンス
〜a labyrinth in fujimori's brain〜 Third bookshelf 『聊斎志異』における変身譚についての考察 〜フジモリ卒業論文〜 |
(六) おわりに 『聊斎志異』の変身譚では、「癡」「癖」という当時受け入れられ始めていた「情」というテーマや、民俗信仰上広く人々の間で受け入れられていた三世報恩の説などを巧みに取り入れ、物語を構成している。特に「情」は『聊斎志異』そのもののテーマでもあり、作者である蒲松齢はさまざまな方法で「情」を貫き続けることのすばらしさを描いている。 グリム童話と『聊斎志異』を比較してみると、「変身」という超自然的な行為をいかに読者に違和感がないように受け入れさせるかいう変身譚の問題を解決する際に、グリム童話は「魔法」という当時その概念が一般化していたものを用い、『聊斎志異』では「情」や「転生」という広く人々に知られていた概念を用いている。両者は「変身」の合理化の方法こそ違えど、人間が「変身」させられるのは「呪い」による「罰(降格)」、人間に「変身」するのは「祝福」による「昇格」という意味合いがあり、その点で「変身」というものに対する観念は共通している。 『聊斎志異』やグリム童話以前にも変身譚は多くあった。変身譚という話は題材・発想の上では決して珍しいものではない。しかし「変身」という超自然的な行為を合理化し、ただ単に変身という事実を記すのではなくその因果関係を書くことにより、この作品がたんなる「説話集」ではなく文学性を持った「物語」として成立しているのである。 もちろん、『聊斎志異』でも単なる「説話」というものもあり、作品全てが「物語」と言うわけではない。しかし、『聊斎志異』の作品の中の変身譚の多くが「物語」として高い評価を受けているのは事実である。『聊斎志異』という作品は、「説話」が「物語」、ひいては「文学作品」へと昇華していく移り変わりを体現しているのではないだろうか。 『聊斎志異』では「癖」「癡」という、当時受け入れられていた「情」という感情で異類たちが誕生・消滅することにより、昔からの形式を踏襲しながらも新しい時代の思潮を反映している作品である。『聊斎志異』が後世まで評価を受けているのも、その作品に時代性と文学性が内包されていたからであろう。 『聊斎志異』では昔から伝えられている説話に作者である蒲松齢が当時の時代性を加え、蒲松齢独自の作品として書き上げることに成功した。『聊斎志異』の変身譚は「癡」「癖」などの当時の思潮を取り入れている。特に報情譚は『聊斎志異』の文学的本質を最も端的に具現した実に聊斎らしい作品であると言える。そしてまた同時に、「情」という方法でモノたちが変身する報情譚は、「情」といういかにも一途で純粋な人間らしい感情を主人公たちが持つ印象ゆえに、他の変身譚以上に時代性と文学性を併せ持ち、『聊斎志異』の中でも特に聊斎らしさがある作品として存在している。報情譚の多くが『聊斎志異』の代表作として挙げられるのも、ここに起因しているのではないだろうか。 前述した「葛巾」では、主人公が「情」を通し切れず葛巾の正体に疑問を抱いたことにより葛巾はその姿を消してしまった。これは「情」を通すことによりモノに魂が宿り、「癡」「癖」として一途な思いを通す人々に、作者である蒲松齢が暖かい眼差しで「報奨」を与えているということの、逆説的な証明であると言えるだろう。 |
| <『聊斎志異』における変身譚についての考察〜INDEX〜> (一) はじめに (二) グリム童話における変身譚 (三) 『聊斎志異』における変身譚−報恩譚 (四) 『聊斎志異』における変身譚−報情譚 (五) 報恩譚と報情譚 (六) おわりに 蛇足 |