フジモリの脳内ラビリンス

〜a labyrinth in fujimori's brain〜

Third bookshelf
『聊斎志異』における変身譚についての考察
〜フジモリ卒業論文〜



(五)   報恩譚と報情譚


 さて、ここまで報恩譚と報情譚における「変身」について論じてきたが、報恩譚は仏教の影響、報情譚は「癡」「癖」への報奨と一見すると双方には共通点がないように見える。

 果たして、双方の本質はまったく異なるものなのだろうか。

 グリム童話と違い、『聊斎志異』では「魔法(=中国における仙術)」における人間から動物への「変身」はほとんど存在しない。多くが動物・植物などから人間に変身する話である。「葛巾」のように物語の中で変身した異類たちは、主人公たちに超自然的な力で富を与えたり手助けしたりするが、グリム童話と違い「困難の打破」という点はあまり重要視されていない。むしろ異類と人間との恋愛・婚姻のほうに重点がおかれている。これはグリム童話との大きな相違点であり、『聊斎志異』の特徴である。

 『聊斎志異』において、変身した異類と人間が情を通わせるという話の筋が物語の一つのパターンであり、このパターンにおいては報恩譚も報情譚も関係ない。「情」は『聊斎志異』のキーワードの一つであり、前述した「癡」に「情癡」と言われるものがあるように、男が癡情を発して女に迫り、女がその情の深さに感じて情を以て情に報いるという話もある。
 「情」は説文解字によれば「人の陰の気、欲するあるもの、心に従う」とあり、また董仲舒は「情なるは人の欲也」「人欲をこれ情という。情は節度の節せざるにあらず」と言っている。もともと「情」は「陰なるもの」、すなわちあまり良くないものだという認識があった。しかし明末清初になり性情が開放され、「癡」「癖」に対し積極的な認識を人々が持つと同時に、「情」という言葉も一途な人間の感情として受け入れられるようになったのである。

 『聊斎志異』の「鴿異」の中で、蒲松齢は「異史氏曰く」としてこう言っている。

 「情之至者、鬼神可通(情がこのうえなく深くなると、鬼神にも通じる)」

 「情」は「念」であり、この念が高まることによって対象が「変身」するのであり、報恩譚では恩を受けた対象が主人公に恩を返したいと「念じ」、変身する。これは対象が能動的に変身する「主体」の情の高まりによる「変身」である。一方、報情譚では対象が主人公たちに情を受け、「癡」「癖」という一途な「念」を受け「客体」が受動的に念を受け「変身」する。報恩譚と報情譚では主体と客体の違いはあるものの、その根底には「情」という『聊斎志異』のテーマが根底に流れていて、「情」によって変身するという点では、この二つは共通しているのである。


<『聊斎志異』における変身譚についての考察〜INDEX〜>

(一)   はじめに

(二)   グリム童話における変身譚

(三)   『聊斎志異』における変身譚−報恩譚

(四)   『聊斎志異』における変身譚−報情譚

(五)   報恩譚と報情譚

(六)   おわりに

蛇足
                


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