フジモリの脳内ラビリンス

〜a labyrinth in fujimori's brain〜

Third bookshelf
『聊斎志異』における変身譚についての考察
〜フジモリ卒業論文〜



(二)   グリム童話における変身譚


 昔、兄と妹がいた。二人はとても仲良しであったが、二人の継母はとても意地悪で、二人に魔法をかけ、兄を魚に、妹を羊に変えてしまった。そうしてずいぶんたったころ、城から来たある客に料理を出そうと、継母が料理人に二人が変身した魚と子羊を殺させようとする。料理人は捕まえた子羊と魚がお互いを思いやる言葉を掛け合うのを聞き、この子羊と魚が魔法で変身させられたものだと悟り、別の動物を連れてきてそれを料理にして出した。そして子羊と魚を妹の乳母である優しい百姓のおかみさんのところにつれていくと、これらが誰だかすぐに見分けがつき、ある占い女に頼み祝福してもらうと二人はまた人間の姿に戻れた。女は二人を大きな森の小さな家につれていき、二人はそこでなに不自由なく、幸せに暮らした。

 これは、グリム童話に収録されている、「小羊とお魚」という話である。
 変身は現実には決して起こりえない超自然的な現象である。この超自然的な現象を物語に用いるにあたり、読者をいかに納得させるかが物語を単なる「説話集」ではなく文学性を持った「物語」たらしめる原動力になる。変身という現象のみをただ書き記すのではなく、その因果関係を読者に納得させることにより、超自然的な事柄を収録する「説話集」が「文学」に昇華するのであると言える。

 変身という超自然的な行為について読者が抱く問題点が二点ある。登場人物が「なぜ(WHY)」変身するのかということと、「どうやって(HOW)」変身するのかということである。この二点の問題を解消し、変身譚という物語はいかに「変身」を違和感なく物語の中に取り入れているかを、まずはグリム童話の場合について、考察してみることにする。

 グリム童話では、「どうやって(HOW)」変身したのかは明らかである。この話を始め、グリム童話にも多くの変身譚が存在するが、その変身の手段の多くは「魔法」という方法が用いられている。「魔法」の仕組み自体はどのようになっているかについての詳細な説明は割愛させていただくが、前述した「小羊とお魚」で述べられたように、「呪い」によって人間は人間以外のものに変身させられ、「祝福」によって人間の姿に戻る。

 アンティ・アールネが1910年に作り、スティス・トンプソンが1928年と1961年に改訂した『昔話の型』は、昔話を分類する際に今も国際的な基準として用いられているのだが、それに従えばグリム童話の大部分の話がその中の「本格昔話」に分類することができる。さらに、グリム童話の名高い話はたいていその中の「魔法の話」に属している。すなわちグリム童話の中では「魔法」は始めから物語の中にギミック(小道具、舞台装置)として組み込まれていることが約束されており、作品の前段階ですでに「魔法」というものが違和感なく読者に受け入れられているのである。グリム童話では「変身」という超自然的な行為を「どうやって」行なうのかという疑問を読者が抱くことはない。それほどグリム童話が口伝されていた当時では「魔法」という概念が一般化していたのである。

 変身が「どうやって」行なわれたのかという疑問は解けた。では次に、「なぜ」変身という超自然的な行為が物語の中で行なわれるのかという点について検討してみたい。

 グリム童話では、その多くが人間の姿から動物・植物への変身であり、その本体はもともと人間である。逆に動物や植物という本体が人間の姿になる話は見受けられない。これは、グリム童話がある一つのコンセプトを持っているからである。
 グリム童話が「魔法昔話」だと分類されるのは前述した通りであるが、ロシアのウラジミール・プロップは昔話の構造を分析し、次のような結論を得た。

 1.昔話の恒常的な普遍の要素は、登場人物の機能である。その機能を誰がどういう方法で行なうかということは問題ではない。機能が昔話の本質的な構成要素である。
 2.機能の数は、魔法昔話では限られている。
 3.機能の順序は、常に同一である。
 4.あらゆる魔法昔話は、その構造から言うとたった一つのタイプをなしている。

 そしてその最終的な結論として、「あらゆる魔法昔話は『竜退治』の変形である」と考えるに至ったのである。ここで言う「竜」とは「困難」を具現化したものである。つまり、「竜退治」とはイコール、「困難の打破」だと言える。グリム童話において、多くの話において主人公たちがあらゆる困難を超えて幸せになっており、グリム童話のの中の魔法昔話のテーマの一つに「竜退治」、つまり「困難の打破」という要素があることは否定できないであろう。

 また、こういう見方もある。昔話は口伝のものが多く、口伝の物語は書き残されたものと違い、一度聞いたら二度目にはその話を他人に伝えられるほうがいい。逆に言えば昔話の根底を流れているものに、「そのリズムが人間一般、生物一般に通じるもの」があり、一回聞いたら二度目にはその話ができるよう、口伝の物語らしくパターン化されたものが「昔話」であるといえる。「困難の打破」は非常にわかりやすく、かつ人間一般、生物一般に通じるリズムであり、このリズムにより、「物語」はスムーズに口伝されていくことができたのであろう。

 この「竜退治」の中で、「変身」は「魔法により人間を人間以外のものに変身させる」という困難を主人公たちに与えている。「変身」は主人公たちに与えられる困難であり、それを打破するという一つのパターンがグリム童話に流れているのである。グリム童話における「変身」とは、呪いで主人公を人間以外のものに変えることにより主人公に与えられる「困難」であったり、変身していた動物がお姫様に戻り主人公に富を与えたりという「報奨」であったりするのである。つまり「変身」は、主人公の「困難」を効果的に演出する小道具として機能しているのである。

 ではなぜ、人間から動物の姿に「変身させられる」ことが「困難」なのであろうか。

 グリム童話において、人間から動物への変身とは「罰」である。これは人から動物に変身する魔法が「呪い」、動物から人間に戻る魔法が「祝福」と書かれていることからもわかる。グリム童話では変身が「困難」として機能する理由は、人間の姿が人間以外の姿に「変身させられる」ことが大いなる「罰」になるからであり、それが主人公にとって大いなる「困難」であるからである。つまりグリム童話の中では、人間本来の姿を至上とし、人間が人間以外のものの姿になることを屈辱と考える「人間至上主義」が根底に流れていたのではないだろうか。
 このことを裏づける同様の話が『聊斎志異』にもある。巻五「罵鴨」がそれである。

 アヒル泥棒をした男にアヒルの羽毛が生え、夢で「おまえの病は天罰だ。アヒルを盗まれた者に怒鳴られるまではその羽毛は落ちない」と言われ、男はアヒルの持ち主の老人に罵られ、病が治った。

 『聊斎志異』においても、人間が人間以外のものに変身させられることは「罰」であり、人間の姿を至上とする考えを持っているのである。
 グリム童話において、変身という超自然的な行為は「魔法」という手段で合理化される。それほど魔法という概念は一般化していたのである。また、その「魔法」によって主人公たちが変身させられ、その「変身」自体が主人公たちへの「困難」になっている。これはグリム童話の根底に人間の姿を至上とする「人間至上主義」が流れていて、人間を人間以外の姿に「変身させる」という「困難」を与え、それを打破することが物語のテーマであるからである。グリム童話において「変身」は、主人公たちへの困難としての重要な「機能」という位置づけをされているのである。


<『聊斎志異』における変身譚についての考察〜INDEX〜>

(一)   はじめに

(二)   グリム童話における変身譚

(三)   『聊斎志異』における変身譚−報恩譚

(四)   『聊斎志異』における変身譚−報情譚

(五)   報恩譚と報情譚

(六)   おわりに

蛇足
                


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